| [3124] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第7回 |
- 信徒連合 - 2016年05月07日 (土) 08時35分
開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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<再掲載>
インターネット道場
「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々
第7回
平岡初枝先生 「八文の定やん、出世物語」 (「しあわせを見つめて」より)
定やん出世ものがたり
<若はんという人>
定やんの話は、私が生長の家のみ教えに導かれて間もない頃のことだから、もう三十数年も前に、門田博という先生からきいた話であるが、いつ思い出しても、胸に新しい火がともったように、心あらたまる嬉しい話なのである。
門田博先生は、当時27歳で、その頃は東京帝国大学といった現在の東大を優秀な成績で卒業されたが、間もなくお父さんと志を同じくして、生長の家の布教のために挺身していられた方である。
話は、この門田先生の大学時代の友人であった藤田某氏のことから始まるのである。頭脳は明晰で、体格も男前も立派だったらしいが、共産党の非合法運動に活躍して、『共産党の巨塊藤田○○捕わる』と、大見出しで新聞に書かれたことも度々あったという人物である。
奈良県五瀬村の旧家の息子さんで、村人からは“若はん、若はん”と尊敬されていたという。学はあるし金もあり、腕もある三拍子揃いの若はんは、やろうと思えば何でもやるというタイプである。こともあろうに、友人の結婚式に列席して、花嫁さんを好きになってしまい、ついに自分のものにしてしまったという。何でもやれるということも持って行きようでは困ったものであるが、それから2ヵ月もたたないうちに、腰から下の動かない病気になってしまった。金にあかして医療を尽くしたが治らなかった。若はんが、何故こんな病気になって、治らなかったのか、すでに読者のみなさんには解っておられるであろう。そんな若はんにも、生長の家の『生命の實相』にふれるときがきた。明晰な頭脳で真理を読みこなし“人間神の子、病気なし”ということを識ったのである。自分の病気は治らないうちから、人の病気ならドンドン治してやれるようになったのである。
<八文の定やん>
ある日、そんな若はんが三方金の立派な『生命の實相』の地の巻を読んでいる寝台のそばへ、定やんがやって来た。定やんは、村の石屋の若い衆だが、人並より二文足りない八文と呼ばれていた男である。 「若はん、それ何の本だんね」 「これか…:これは、神さまの本だ」 「若はん、神さまの本読むと、どんなことありまんね?」 なにぶん八文の定やんに解るように説かねばならないから、若はん考えた。 「神さまの本読むと、嫁はん来るね」 これが、定やんの興味をひいた。というのも、定やんはもう40歳にもなるのに、まだ嫁さんがなかったのである。神さまの本を読むと嫁が来るとあっては、聞きずてにならなかったわけである。 「若はん、私にもその本貸せて……」 「お前、字が読めるのか?」 「仮名がついていまんのやろう。仮名がついていたら、読めます」 「仮名がついていても、意味がわからないでは、しようもないではないか。よしよし、それでは僕が昼のうちに読んでおいて、晩になったら、お前にわかるように話してやろう。毎晩来たらよい……」 毎日寝たつきりで退屈な若はんは、定やんにも都合の良い妙案を考え出したのである。それから、定やんは夕飯がすむと、若はんの家に行く。若はんは、真理をわかり易く話してやる。 こうした日課が始まったのである。 「若はん、どうすると嫁はん来まんね?」 「神さまに、お祈りするのや」 「どう言って、祈りまんね?」 「定やん、毎日これまでより30分早く起きるのや。そしてキチンと坐って、左足を右足に重ねて瞑目合掌する。身体は真直ぐに姿勢よくして、ニッコリと嬉しい顔をしながら、『うちにはもう女房おりまんね。ありがとうございます、ありがとうございます』と、同じことを30分ずつ言う。これが祈りだよ。できるかい?」 「若はん、やります、やります」
定やんは、眼を輝かして誓った。そして、定やんの嫁もらいの神想観は、実に素直に、実に真面目に行なわれた。定やんには疑いがない。だから1ヵ月あまりしたら、本当に定やんに結婚話がもち上がったのである。
相手は、近村の相当の家の娘さんで、兄に当たる人は日展(そのころの帝展)に入選したこともある画家というのであった。その話を聞いた若はんには、常識心が働いて言ったそうである。
「定やん、嫁をもろう時は、ようく調べてもらわなければだめだよ」 すると、定やんは目を丸くして、答えたもんである。 「若はん、嫁はんは、神様がくださるのでしょう。神様のくださるものを、なんで調べねばいけないんですかい?」 これには、さすがの若はんも、ぐうの音も出なかったそうである。それから、また1ヵ月あまり過ぎてから、定やんは嬉しそうに報告にやってきた。 「若はん、15日には結納もって行きまんね」 「結納? いくらもって行くんだ?」 「30円だんね」 「30円! お前もっているのかい?」 「ウーン、でも若はん神様は要る時、要るものをくれまっしゃるんでしょう?」
この時も、若はんは一本とられたわけである。日頃から若はんに教えこまれていることを、そのまま真面目に信じているのだから、若はんには手も足も出ない。しかし、若はんから見れば、定やんに金のあるはずはない。定やんは、石屋の若い衆には違いないが、一人前に石彫刻ができるわけではなく、ほんの石屋人足の仕事しかできない。給料は、いつまで経っても日給、五十銭にすぎなかったのである。でも、定やんは「神様は、要る時に要るものをくださる」と、信じ切っているのだから幸福である。心配しているのは、若はんの方である。それで、また定やんが来た時に、聞かずにいられなかった。
「定やん、30円でけたかい?」 「若はん、何言ってはるねん! まだ一週間もあるやおまへんか」 定やんは、ケロリとしたもの。それでも気にかかってしようのない若はんは、自分の奥さんに「定やんに30円出してやってくれ」と頼んだそうである。
ところが、明日は結納という日の夕方、定やんが手に10円の札を3枚握って、元気に飛び込んで来たのである。そのいきさつが、また愉快である。その日、定やんは親方のところへ行ったのである。 「親方、明日一日休ませてもらえまへんやろか?」 「駄目だ、駄目だ。この忙しい時に……なんで休まねばならんのや?」 「結納もって行きまんね」 「結納? どれだけもって行くのや?」 「三十円だんね」 「お前、三十円持ってるのかいな」 「神様がくれまっしゃるね」 「神様? どこの神様がくれまっしゃるね?」 ここで、定やんは頭をかいて言ったという。 「ありゃ! それ聞いてくるのを忘れた」 ともかく、こんな会話のあと、一度はあきれた親方も女房をよんで 「定やんは、こんな他愛もないことを言っているが、まあ10年の余も間に合わんとぼやかれながらも、精いっぱいに真面目に働いてきたのだ。30円出してやろうじゃないか」ということになったというのである。まことに、信ずる通りになる世界である。定やんの一途な信仰は、そのまま神に通じたのであろう。
<定やんの愛行>
さて、定やんが結婚式をあげてから数日後、女房を連れて若はんの家へ挨拶に来たときのことである。 定やんの連れてきた嫁はんを見て、若はんは卒倒せんばかりにおどろいた。その顔は、顔面神経痛で目も鼻も絶えずピクピク動いている。左右の手頸は、妙に奇型にかたまっているばかりか、たえずひきつけのように胸の前でおどっているではないか。若はんは、もしやと心配して「嫁を貰う時にはよく調べてもらうもんだよ」と言った日のことを思い出したが、もう後の祭りである。ところが、挨拶が終わると、定やんは聞くのであった。
「若はん、病気って心の影でっしやろ?」 「うん、そうだ」 「じゃ、こんな病気、どういう心のかげでっしゃろ?」 定やんは、顔面や奇型の手が、ピクピクしている嫁はんの真似をして見せたのである。 「それはのう……」 若はんは、どう言ってやったら、わかるだろうと考えながら次のように話したというのである。 「よし、どういう心のあらわれか話してやろう。大体われわれが生まれたというのは、父と母とがあったからだ。そして、その父にも父と母とがあったし、母にも父と母とがあった。さらに、その父母たちにもまた父と母とがあった。このことがわかると、われわれがここに生まれて来るためには、何とたくさんの先祖があったかということが、わかるであろう。その先祖達は、この目にこそは見えないけれど、霊界という世界で、みんな生きていられる。ところが、お前たちは、この、金でも物でも買えない尊い生命を与えてくださったご先祖様に、本当に心の底から感謝したことがあるか。朝目がさめたら『御先祖様ありがとうございます、お父さん、お母さん、ありがとうございます』と挨拶したことがあるか。夜ねる時も『御先祖様、今日一日お守り下さいまして、ありがとうございました。どうぞ、眠っている間もお守り下さいますように』と、感謝の祈りを捧げたことがあるか。ないじゃろう。お経の一つもあげて、先祖を喜ばせたこともないだろう。それが、ご先祖様には悲しいのだ。 それが、ご先祖様には口惜しいのだ。それで『口惜しい!』と、そんなに手をふるわせて怒っておられるのだ」
こんな話を、初めて聞いた定やんは、びっくり仰天…… 「ご先祖さまを喜ばせるには、どうしまんね?」 「仏壇を掃除して、新しい花を供え、毎朝新しいお水と仏飯も供えて、お光をあげて『甘露の法雨』という御経を誦げてあげるのだ。そうすると、ご先祖様が喜ばれる。そしたら、口惜しいなどと手をふるわせられることもなくなるだろう」 「その『甘露の法雨』という御経の本は、いくらだんね?」 「五十銭だ」 「どこに、売ってありますのや?」 「それは、奈良の平野初造という先生のお家にある」 「そんなら、若はん、五十銭貸せてください。これから、奈良へ買いに行きますわ」 「お前、ここから奈良へは十一里半もある。往復二十三里を自転車では、とてものことだ。定やん、明日まで待つことだ。明日になれば、家でも用事があるから、買ってきてもらってやるよ」
若はんに、いくらとめられても聞き入れず、定やんは五十銭を握って、自転車にまたがり、奈良へ走った。家に帰ると、さっそく仏前でお経をあげた。仮名をたよりの読経は、一巻をあげるのに三時間の余もかかったという。しかし、定やんは愛するものを完全にしてあげようと、一所懸命であった。人の誠ほど尊いものはない。神に通ずるのは、形でもなければ利口さでもない。人の心の誠である。ついに、定やんの誠心は天に通じて、女房の不完全な姿が、とうとう消えてしまったというのである。
定やんは、その喜びを嫁の実家の人達にも見せてあげたいものと、女房をつれて行った。嫁の実家でも、喜ぶには喜んだのであるが、「こんなに治るものなら、定やん如きにやるのではなかった」と浅ましい人間心を出して……帰って来たのは、定やん一人だったというのである。形の世界だけしか見えない人間は浅ましい、哀れなものである。しかし、そんな身勝手は長くは続かなかった。間もなく、嫁さんは前にも増して不完全な姿になってしまった。ようやく親兄弟も目が覚めて、懺悔の涙とともに嫁さんは定やんのもとにかえされたというのである。そして、定やんの熱心な先祖供養のお蔭で、再び嫁さんの病気は癒やされたのである。そこで、若はんは嫁に訓戒を与えた。
「定やんは、お前の神様だ。阿呆や八文やとおろそかに思ったり、粗末にしてはならない。お前の身も心も浄めて、まことの人間として、神の子らしい姿にしてくださった、お前にとっては神様だ。朝に晩に『私の尊い神様でございます、ありがとうございます』と礼拝するのだ。それを怠ったら、また元の醜い姿になるぞ」 もとより女房には身にしみる教訓であったから、定やん夫婦の本当の拝みあいの生活がはじまったのである。
<定やんの金儲け>
ある日、若はんが尋ねたそうである。 「定やん、神さまは正しい祈りであれば、無限のお力で叶えてくださることが良くわかったであろう。これからのお前は、神さまに何を祈るかな?」 「お金欲しおまんね」 「お金? どれ程だ」 「五万円だんね。若はん、どう祈ったらよろしおまんね?」 「五万円か! 定やんの夢はなかなか素晴らしい。五十銭の日給とりでも、五万円の夢を描く。そうだ、夢は大きく素晴らしいのが良いと教えられている。お祈りの言葉は、いつも一緒だよ、正坐、合掌、そして瞑目、ニコッと嬉しい顔をして『神様ありがとうございます、ありがとうございます、家にはもう5万円ありまんね。ありがとうございます』と言うんだよ。神様には一度だけしっかりと『私は5万円ほしいのだ』と言えば良いのや。神様だから、一度お願いすれば、よう解るんだ。それで実相の世界では、もう定やんの手に5万円をのせてくださるのやけれど、それがこの現象の世界、つまり目に見える世界にあらわれるまでにはちょっと時間がかかる。その時間を縮めるには、『汝ら祈る時、すでに与えられたりと信じて感謝せよ』と教えられている。それを定やんの言葉で言ったら、『家には、もう5万円ありまんね。ありがとうございます』と言うんだ」
若はんに、噛んでふくめるように話して貰った定やんは、大喜び。毎日仏壇の前に坐って、5万円感謝の祈りを捧げ始めたのである。そして、ある日、定やんが隣りの町へ出かけると、知り合いの人に呼びとめられた。
「定やん、親方に頼んで家の石碑を一個、刻んでもらってくれんか。20円のでよい。来月末までにな」 定やんは、注文の石碑を親方に頼んで 予定の期日に仕上げて貰った。そして いよいよその石碑を、注文主へ運ぶことになった時、親方に聞かれたのだった。
「定やん、お前は、その石碑をどれだけで引き受けたのや?」 「20円だんね」 「そりゃ20円はわかっているが、お前が引き受けたのはどれだけや、と聞いているのや」 「20円、だんね」 「なんだ、お前は20円で引き受けてきて、わしに20円で刻ませたのか? すると、お前は、その重いものを向こうさんに運ぶ手間一つ取ってないということになるではないか。馬鹿な奴だな。これからもあるこっちゃ。そうした時は、20円の注文を受けてきたら、わしには15円の手間で刻ませるものだ。そしたら5円の差額が出る。その5円から、運賃その他の諸経費を引いた残りは、お前が注文をとった注文代にするのや。わかったか。今日の分は、わしが5円だけ引いてやる……」 「へえ……」
定やんは、意気揚々と車を引いて、隣り町へ行った。先方では、届けられた石碑を見て 立派な出来ばえに、びっくりしたり喜んだり。それは、そのはずである。1円の儲けも入らない品物が届けられたのであるから、びっくりするのも無理がない。喜ばれて、定やんは嬉しくてたまらない。
「それ15円だんね」 出がけに、親方から言われた話を喋ってしまったのである。そして、このときを最初に、正直者の定やんには同じような話が次々にもちこまれて、日給の外に、時折相当な金が、残るようになったという。
「定やんの『5万円ありまんね』の祈りが、徐々に芽を出して来たんだね。偉いもんだ」 寝たつきりの若ばんが、門田先生に伝えた定やんの話は、ここまでである。真理の言葉というものは、こんなにも素直な心で聞き、こんなにも真っ直ぐな赤児のような心で行じた時、こうも実相そのままに展開するのか、と感心させられたのであった。
<真理の証し人>
その後の定やんについては、10数年後に、今は亡き加藤舜太郎先生が話してくださった。馬鹿だ、八文だと蔑まれていた定やんが、女房に明け暮れ『私の神様、私の仏さま』と拝まれて、追々に神性を顕わしてきて、村の村会議員とかにも選ばれ、小さいながらも会社の社長ともあがめられるようになり、四国の山へ石材を切り出しに行ったりもしている、という話であった。
そして、今ではもう70歳に近い定やんだが、かくしゃくとして村の枢要な職にある。そして、生長の家の先生が巡講に行かれると、必ず羽織袴で駅まで出迎えて、合掌している定やんの姿があるということである。人間神の子の真理の尊い証し人として、私は思い出すたびに、心の清まる思いがするのである。
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