| [3263] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第18回 |
- 信徒連合 - 2016年05月18日 (水) 07時02分
開祖・谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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<再掲載>
インターネット道場
「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々
第18回
小林春恵先生
「導かれて八十余年」
<その五>
「わが信仰の旅路」より
はからいなき計らい
昭和三十六年の八月は、尾本輝三教化支部長(当時、新潟県教化支部長)と相談して、私も新潟県の巡講のお手伝いをさせて頂くことになっていました。四日は新潟県の小須戸町、五日は三条市の自宅で皆さんとお話をして、七日は糸魚川市へ行く予定。そして、間の六日は、富山県の白鳩大会があるので平岡初枝先生(当時、婦人部次長)のお手伝いをさせて頂く約束がしてありました。
ところが、私はなんということなしに気が変わりました。“八月五日に変更して下さるなら参るし、そうでなかったら、この度は取り止めて頂きたい”と糸魚川へ手紙を出したのです。
先方からは“五日は小出タケ講師が来られるのだけど”という返事でした。“それならなおさらのこと。私も久しぶりで小出講師(先生)に会いたいから、一緒にしてもらいたい”ということにしました。
四日の小須戸の集まりを終えて、すぐ糸魚川へ発とうとしたら、その日は私とゆっくりしていられると思っておられた小須戸の皆さんが、気を悪くされて約束が違うと言われるのでした。 「小林先生は、嘘ばっかり言われる」 「それじゃ、小林の姑(はは)と私は親と子で同一やで、あなたたちは三条の家へ行って、姑と一服飲んで頂戴」 こう言って、皆さんを三条駅で降ろし、私はそのまま糸魚川へ向かいました。
翌朝、糸魚川から富山へ行くために地元の信者に私の乗車券まで買わせては済まないと思って、駅へ行ってみると“長岡と三条間は、水害のために鉄道線路が流されてしまって不通”と書いてあるのです。びっくりして、新聞の号外をみたところ、私の家のすぐ傍らの東本願寺別院通りの橋が流失。橋ぎわの家が流されて、その家族も、これを救助しようとした消防署員も死亡、と書いてあるのでした。近来にない八月五日の集中豪雨の惨状だったのです。
もし、私が三条の家で皆さんと一服していたら、六日に富山に行くことはできなかった。その頃、平岡次長の御気分が優れないので、お手伝いすることになっていた約束が果たせなくて申し訳ない結果になるところでした。幸いに前日、危険地区を越えて糸魚川に来ていたために、無事に富山の会場へ着くことができたのでした。
会場では、こんなことが起こりました。
「あれ、小林講師(せんせい)の胸(お)章(はな)を準備しておかんかった。大変だ!」 「それじゃ、これを小林さんにつけさせれば良い」 尾本教化支部長が、御自分の胸の花を外そうとされました。 「いや、私はお花を持ってます」 「小林講師(せんせい)は梅干しだけ提げて歩くんかと思ったら、花まで提げて歩かれるんですかね?」
実は、その年の六月の七尾の講習会の折でした。会が終わってから、谷口雅春先生が、お胸につけられた花を、私の手にお渡し下さった時、そこら辺りに置くのが何とももったいなくて仕様がないものですから、箱に入れて旅に持って歩いていたのでした。それが、富山の会場で準備していたものと全く同じだった訳です。尾本教化支部長のを外して恰好悪い思いをする必要もなく、まるでこの日のために準備されていたような箱の中のお花を胸につけさせて頂きました。(この日を限りに、その胸章は家に大切にしまってあります)
必要な人が必要な時に
それから一週間ほどして、鉄道も復旧したので、三条の家へ帰りました。 「お姑(かあ)さん、ひどかったね」 「いやいや、春恵さん。何もかもただもったいのうて、有難うてのう。計らいのない中に計られて、もう言いようがないんだばてのう」 「お姑(かあ)さん、あの時、どうしなさったね?」 「実はのう、春恵さん。私は庭の池の金魚と鯉が、どっかへ行くような気がして心配になったので、ザル抱えてきて一所懸命に鯉をすくい上げようと思っているうちに“あれ、畳が危ないな”と思ったもんだから、畳を上げようと思ったけど、荷物片づけて、女手で畳上げようなんて、どうにもこうにもならん。そこへ、あんたがお茶飲めと言うたと言って、小須戸の人達がきてくれたでのう。“よしよし。春恵講師(せんせい)の代わりに手伝ってやるわね”という訳で全部畳は上げてしまったのよ」
それでも、まだ不安な気がした姑(はは)は水野会長に電話をかけたそうです。 「水野さん、あんたのとこは、どうだね。家は全部、水が入ってしまっての」 「そりゃ良かった。そうすりゃ、プール代わりに水泳ぎでもしていれば、良かろうがね」 「そんな訳にいかんわね。小須戸から手伝いに来ているのに、相愛会長さんが道場へ来ないで良いやんかの」 笑いながら道場へ来なさった水野会長が、すぐに言われたそうです。
「あれ、おっ母さん!畳上げたら、ついでに床板も全部外しんさい」 床板を全部、みんなで外して上げる。堤防が決壊して、水が入ってくる……が、間髪の差。どんなに人手の多い家でも、畳を汚してしまったというのに、人手がなくても、人手の必要な時にはちゃんと集まっていて、ひとりでに畳も床板も上げて頂いて、何の不安もなかったというのでした。
炎天の屋根塗り
それだけではありません。この大水の少し前のある日、水野会長が訪ねて来て言われたそうです。 「おっ母さん、道場のトタン葺きのところ、コールタール塗りにきた」 「商売人に頼んだから良かろうが……」 「いやあ、春恵講師(せんせい)がせっかく心配して建ててくれなさったから、ちっとでもお役に立とうかと思って、屋根を塗るがにしたわね」
道場の屋根は、半分瓦で、半分はトタン葺きなのです。相愛会長が、それほどまでに道場を愛して下さるのに手伝わねばと、姑(はは)も道場の屋根に上がったら、断わられてしまった。 「おっ母さんなんて、道場に来んたって良いのに……。お前さんのこの家の方をせいのう」
小林の家の屋根は、古いトタン葺きでした。ちょっと気の利いた雨が降ると、雨が漏って、バケツや盥(たらい)をもって大騒ぎ。ブリキ屋さん呼んできても、どこから漏るやら解らなかったものです。
何しろ、生まれて初めて屋根に上がってそれも、真夏のトタンの上です。天火の上に乗ったのと同じこと、眼が開いているやら、何やら無我夢中。その晩は寝てからも、脳味噌が煮立っているようだったといいます。
翌朝は、茗荷の葉を頭にのせて、手拭いを被り、佐渡おけさの笠をかぶって屋根へ上がった。大きな布や刷毛(はけ)で塗るなんてことは、姑(はは)には恐ろしくて出来ない。小さな障子刷毛を使った。いくら玩具のような屋根でも、手間がかかったわけですが、同時に針でついたほどの穴も見つけることができて、その穴に一つ一つ綿切れなどを挟み込み、コールタールを塗ることができたのです。お蔭で、どんな素晴らしい家でも、雨が漏って大騒ぎしたあの恐ろしい集中豪雨の時に、一滴の雨も漏らさずに済んだというわけです。
「春恵さん、全く隅から隅まで、みんあ神様がさせて下さるんだのう」
庭の松の木も準備完了
姑(はは)から、この話を聞いて、私は再び任地へ旅立ったのが、八月半ばでした。月末に帰宅してみると、庭の松の木の下に丸太の支え木がしてあり、枝は全部棕梠縄でくくってあるのです。私が小林の家に来てから随分経つが、冬が来ても雪囲い一つしてあった例(ためし)がないのに夏の最中(さなか)に、妙なことをしたものだと思いました。
「お姑(かあ)さん、庭の松の木、どうしたんですかね?」 「ああ、それはね、この間庭師が来てのう。八千六百円だったいのう」 私は、あきれ返ってしまいました。雪が降るからというなら解るけど……とは思いましたが、過ぎたことに小言を言わない癖がついています。 「はあ、そうですか」 「まあ、庭の税金だと思っとれば良いことのう」 「お姑(かあ)さんが、頼まれたのですか」 「いや、庭師さんが突然来てのう。『松の木の手入れさせてくれ』言うたから、『家の庭師は定(き)まっている』と断わったら『どういう人来(こ)なる』ときくの。『しゃべる時に首を振る人が来る』『あの人なら死になったから、去年も来なかったはずや、今度から、私に手入れさせてくれ』と言うてのう……」 いつのもように、鋏で枝を刈り込む程度で、手間賃やれば良いのかと思っていたら、材木屋の仕切書、縄屋の勘定書など、あれこれ合計八千六百円也だったというのです。
「してしもうたものを解けとも言われないしのう。春恵さん。庭の税金だと思うてんばならんこてのう」 ところが、それから半月ほどして、九月十八日に台風十八号襲来。隣り近所の屋根は、みんなめくれ上がってしまう大騒ぎになりました。 わが家の備えは万全。屋根も、庭の松の木まで、手入れが行き届いていたお蔭で、何の被害もなく、御近所の貴重品までお預りしたのです。
この夏は、庭師も姿を見せず、松の木には支え木もなく、無事に秋を迎えました。改めて“必要な時に、必要なことが……”と思わせられるのです。
つねに、大いなる智慧が、私どもを御加護下さって、打たねばならない手を打たせて下さる、としみじみと証しさせて頂いて、ただただ信仰の計らいの中にあることを歓んでいるのでございます。
親子の縁
すでに、これまでのお話しの中に出てきました、息子良一と、私が、親子の縁(えにし)をいただきましたことについて、次に、詳しくお話ししてみます。
私と息子良一との間に初めて親子関係が結ばれたのは、良一が三歳の時でした。 初めは、私が仲人の形式で、生みの母親から他家(よそ)へ養子に世話したのでした。その子は、一、身体が丈夫で、一、戸籍が立派であるという条件にかなってもらわれたのでしたが、どうしたことか、間もなく小児結核と中耳炎と小児喘息を患いました。
病みつかれた子供をつれて、養母は毎日医者通いをしました。 医者はふびんに思ったか、「あんたの生んだ子であれば仕方がないが、この子は結核性の体質であって、所詮は小学校へ上がるまでに丈夫で生きているかどうかわからぬ」「小学校へ上がってから死なれたのでは、泣いても泣ききれないから、もとへ戻したがよかろう」 と申しました。
養母は子供がかわいくて仕方がないが、万一そんなことでもなったら、どうしたらよかろう、と思い出したらだんだんその子と一緒にいることが恐ろしくなってしまって、遂に元へかえす相談に来ました。
養母の話をきいて、もう他へ養子に世話することも出来ないし、生みの親の許へ返すことも出来ない事情でしたので、私は決心しました。――
“どうせ小学校へ上がる頃までしか育たないというのであれば、この先いくらでもないのだから、それまで私が育てましょう”“その間、朝な夕なに『甘露の法雨』をこの子の魂に読んできかせよう。そして、この次生まれてくる時には、立派に父母の傍で育つことが出来るように、この子の魂が徳を豊かに備えてくるように『甘露の法雨』の功徳を頂くことにしよう” ――
こんな気持で、誰にも相談しないうちに、その子を私の籍に入れてしまいました。親兄弟に話したのは、その子を籍に入れてしまってからのことでしたから、親たちもどう反対しようもなかったのでした。
まだ独身で、子供を産んだことも育てたこともない私でした。万が一子供が泣いたり喚いたりした時に、打ち叩くようなことでもあってはならないという気持から、神様に祈ってお願いしました。
“三千世界の中から親として私を選んでくる良一にとっては、私は一番信頼されているのだ。私が良一の信頼を裏切るということはないのだ。神様有難うございます”
一所懸命に、心の中に母としての感情を育てあげるために毎日毎日、ちょっとの暇でも、何か不安な気持も手伝って、祈らずにはいられませんでした。こうして、いよいよ良一を私の手許に引きとる日がきました。
ながい間育ててきたもとの養母さんにしてみると、憎くて帰すわけではないのですから、どんなにか悲しかったとみえます。 良一を私の家において帰ったあくる朝でした。朝の四時少し過ぎた頃に、もう私の家へ訪ねてきました。 「良一や!良一や!かーかだぞ!」 「かーか来たど――」 「良一や眼さめたかい?」 と懐かしげに外から呼びかけるのです。 それからは、朝から晩までの弁当を持参して、一日中、子供の世話をします。風呂にも入れて、寝つかせてから、そっと帰ってゆくという日が続きました。
その内に私の母が心配をはじめました。 「いよいよおまえが自分の養子として、もらい受けたということであれば、お前の子なのにいまさらかわいがっていたといって、ああして親顔されたのでは、お前が全く無駄骨していることになるのだから、はっきりと断わりなさい」
「なあに、大丈夫。良一と私は母子(おやこ)なんだから――」 「戸籍面だけでいくら親子になったって、母子なんていうもんじゃない。養子というものは、育ての子で、育てないで、前の養母が来て育てていては、子供は日に日に賢くなるばっかりだから、お前なんか、なつきっこないんだよ。今のうちに私の言うことをきいて、はっきりと断わりなさい」
「良一に徳があって、経費のかからないようにちゃんと給金いらずの守を連れてきている……わたしもそれだけ徳者で……良一が親孝行というわけなんだから――」と親兄弟の心配をよそに、私は平気なものでした。
ところが、良一と私が二人きりの母子(おやこ)になる機会がきたのです。 ある日、こんなことが起こりました。 毎日私の家に来て、終日良一の守をして、子供を寝かしつけて帰ってゆくのが、もとの養母さんの日課でした。その日は、良一が遅くなって昼寝をしたために、どうしても寝つかないのでした。 帰る時間がきて……まだ起きているかわいい子供を置いてゆかねばならない……それが堪えきれなくなってしまったので、子供を抱きながら、 「良一や、かあかね、あっちへ行くんだぞ。分かるか。かあか、あっちへ行くんだぞ」 と遠い所へ行くんだと一所懸命に、きかせています。子供は黙ってきいていました。 「良一や、やすめよ――」 去りがてに、養母はこう言いました。 それに答えて良一が、 「かあか、やすめ……」 と言ったんです。その返事をきくと、自分の期待を裏切られた悲しみのためか養母は振り返って、子供をだきあげるなり、 「良一、お前はどうして、そんなに恩知らずなんだ。お前を育てた一年数ヵ月間、どれぐらい私が難儀したか、お前には解らんのか。昨日はあの医者、今日はこの医者と人に笑われながら、お金を使って騒いでいた私の気持も知らないで、お前はどうして『かか、やすめ』などと言うのか。『かか、行くな』とどうしてお前は言わないのだ」と夢中になって、子供にすがりついてかきくどきます。子供もその感情に打たれたか泣き出しました。
私には、――どっちが母になることが神様のみ心なのか分からなくなってしまいました。それで、解決を子供に求めることにしました。その子の魂が欲する親をもたせることが、一番のみ心であると感じたのです。
「良一、お前ね、加茂おっかちゃん(私)の子だや? おかか(前の養母)の子だか?」 すると、子供は永い間愛撫されていたおかかの懐から下りて、 「加茂おっかちゃんの子だ」とはっきりと答えたかと思うと、戸籍面では数ヶ月前から母子(おやこ)になっていますけれども、一遍も抱っこされたこともなければ愛撫されたこともない私には、とびついてくることが出来ないので、六尺廊下の真中に痩せた手をついて、泣いていたのでした。泣いている姿を見ながら私は、魂の底から、 “あーあ良一大出来や。私が良一の母になることが神様のみ心であるならば、どんなことがあろうとも私は決して良一を裏切りはしない” と心の中に本当に大丈夫だという母としての気持が起きてきたのです。
そこで、泣いているおかかに申しました。 「あなたには長い間かわいがって、限りない愛情を表現してきながら、一遍も愛情表現を具体的にやったことのない私のために、まんまと土俵の外に投げられてしまったという気はしませんか。 何故あなたが、こんな目にあったか。それは、医者に、病気だからこの子は見込みがない。こんな子は学齢まで生きるのが精いっぱい。下手まごついて脳膜炎にでもなれば、それっきりだから、今のうちに返せと言われたときに、あなたがせっかく母子(おやこ)というこの世の約束を結びながら、返す覚悟をつけたその時に、あなたはもうこの子の母ではなくなったのです。今後、幾度養子を迎えようとも、そんな気持があなたにある限り、同じ悲しみをくりかえすばかりでしょう。二度とこのような思いをしなさいますな」
私は、泣きながら去って行くその後ろ姿をいつまでも見送っていたのでした。 それから、すくすくと丈夫に育った良一は、私の大事な一人息子です。
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