| [4235] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第125回 |
- 信徒連合 - 2016年07月21日 (木) 08時27分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第125回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!
地上に生きている人間の構造について
帰幽の神示(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.185−186』
<<汝の肉体は汝の<念絃(ねんげん)>の弾奏する曲譜である。生命が肉体に宿ると云うのは二元的な考え方であって真理ではない。正しく云えば生命はその念絃の弾ずる曲譜に従って肉体を現すのである。肉体と云い、複体と云い、幽体と云い、霊体と云うはこれ悉く念の映像に過ぎない、汝の念譜の種類に従って或いは肉体を現じ、或いは複体を現じ、或いは幽体を現じ、或いは霊体を現ずる。すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない。人は神の子であるから不死である。念譜の形式が変わるに従って汝の仮有(けう)の形式が変わるのである。すべての人の仮有は念の異なるに従って、その顕現を異(こと)にする。念の形式に大変動を生ずれば、汝の仮有は他界に顕現し、今までの念の顕現たる肉体は速やかに自壊自消する。これを人々は死と呼ぶが死ではない。それは『生命』が念の絃(げん)をもって一曲を弾じ終わってそれを止め、他の奏曲に移らんとするに等しい。『生命』の弾ずる念の曲譜の形式に大変動を生ぜず、その念絃の律動にただ調和を欠きたるのみなるを病と云う。かくの如き病は、念絃の律動の調子を直せば治るのである。併し如何にその念絃の律動正しくとも初歩の一曲は必ず終わって一層高き形式の曲譜を学ばねばならない。吾が云う意味は、地上の生活は必ず終わらねばならないと云うことである。地上の生活は汝の初歩の一曲である。速やかにこれを終わるものは、初歩の教本を速やかにおえたものである。一曲を終わらんとするを悲しむな。それはなお高き一曲に進まんがためである。その前に調律者が来て汝の念絃の調子得を正すであろう。この調律のため一時汝の仮有は調子ならぬ調子を奏でるであろう。此の世の一曲が終わる前に肉体の調子が乱れたように見えるのは此の調律のためであって真に調子が乱れたのではない。汝らかくの如くして次第に高き曲譜に進み行け。一曲は終わるとも弾き手はおわるのではない、弾き手は神の子であって不死であるぞ。(昭和六年六月二十六日神示)
生命の振動の具象化としての体(P.187−191)
<<・・・『甘露の法雨』には「心の糸を組み合わせて、肉体の繭(まゆ)を作り」と書かれている・・・ 「生命」というものは我々に見えるところの、縦・横・厚みの三次元世界には無い訳であります。「生命」は空間的広がりの世界には無いのであって、その空間的広がりの無い世界から“コトバ”即ち「生命の波」を起こすのであります。・・・目に見えない世界にある「無」の一点から「生命」の振動が起こって、それが空間的に広がって、波ができます。「無」即「無限」なるものが「生命」の本体、・・・一切を自己に包容する「絶対無」であります。・・・そして、波長が一万分の3.7ミリ位から8ミリ位のところが、我々の肉眼に見えている肉体の範囲であるという事であります。・・・生命の振動が中央部から外へひろがりまして、(実は三次元以上の世界から、縦横厚みの三次元世界に広がり出まして)それが肉体であります。もう一つその内部にあるところの振動の部分は普通見えない。これは肉体ではなく、「エーテル体」という所であります。それから更に内部の波長の短い所は「幽体」であります。更にこの幽体の内部の所は霊体であります。それからその霊体の内部に広がりを超越した所の本体があります。・・・「無にして無限相」であります。「人間とは如何なるものか」というと、此の本体が人間でありまして、此の本体がピアノの絃(いと)でも弾奏するように「振動」を起こしてその「振動」によって現している所のものが肉眼で見える世界であり、人間であるという訳であります。・・・「無空間の世界」にある所の本体の「生命」が振動を起こすと、その振動の範囲が空間として我々に認識され、その振動の持続が時間として認識されると云う事になっているのであります。>>
<注・コメント>
(1)開祖・谷口雅春先生の上記の御文章を読んで感じますことは、その内容がきわめて論理的であるということであります。不合理性を伴う、いわゆる迷信的要素はないのであります。現代科学の合理主義教育を受けた人でも充分に理解できる内容であります。たとえ疑問点が出てきましても、その次を読んでいきますとその疑問点は一つ一つ氷解して行くのであります。従って、生長の家の御教えは、現代社会の科学的合理性や論理的思考に充分に適応できる現代の唯一の宗教であります。
(2)マサノブ君の「今の教え」は、開祖・谷口雅春先生の「本来の御教え」と比較してこの点が間違っている、この点が換骨奪胎されて全く“似て非なる”いわば「雅宣教」に衣替えしていると、<本当の「生長の家」を伝え遺す信徒連合>が信徒の皆さんに申し上げますと、それに対して抽象的に反論する人が有りますが、一人として具体的に「この点は、こうである」と論理的に理路整然と究極の所まで反論を展開してきた人は一人もありません。
これからの宗教に求められる一側面は科学的合理性と論理性であります。開祖・谷口雅春先生の御教えは、立教当初からこの側面を伴っていたのであります。従って、立教当初から、高等教育を受けた信徒の人も抜群に多く(戦前ではインテリ向けの宗教とも一般に評価されていた)、一流の人々のなかには、敢えて信徒とは言わずに『生命の實相』全巻を購入・精読されていた人々も多いわけであります。開祖・谷口雅春先生の御教えは一分の隙もない完璧な教えであり、その完璧さの理解出来る人、出来ない人の差は全くその人の霊性開発度に比例するのであります。
兎に角も、宗教界の大学院としての開祖・谷口雅春先生の『唯神實相・生命の實相哲学を今人生最大の学びとして行きましょう!
(3)吾々生長の家信徒の中には、霊界を實相世界と間違って理解して居る人達がおられます。霊界は現象世界の一部でありまして、次元が違っているだけであります。また、「實相」という言葉は、哲学用語では「実在」と表現されます。従って、実在世界=實相世界となります。
注意しなければならないことは、「幸福の科学」の大川隆法氏の使われている「実在・実在世界」と云う言葉は、「霊界・高級神霊界」という意味の内容で使われていますので、此の区別を明確に理解した上で本を読まなければ現象と實相とを混同してしまいます。くれぐれもご注意下さい。
複体に就(つ)いて
(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.192−193)
<<・・・複体とは何かというと、エーテル体と幽体とは、肉体に対して普通はピッタリ重なり合っているのでありますが、何かの都合でその位置が食い違って、写真の二重写しのようにダブッて霊眼に見えることがある。それを複体というのであります。・・・エーテル体、幽体、霊体は全体的に互いにピッタリと重なり合っているのであります。肉体のどの部分にも、同時に霊体もあるし、幽体もあるし、エーテル体もあるのです。丁度、波長の違う放送局の波が同一空間に重なり合っているようなものであります。重なり合ってありながら、一方の波が速い、一方の方はゆっくり波動しているというようになっている訳です。本体は超越的内在でありますから、これは全身のどこにも内在して肉体と幽体とが重なり合っているように、やはり全体にあると見てよろしい。ところで肉体から多少幽体が脱出したりすると、幾分、肉体と幽体との位置がズレて歪(ゆが)むのですね。そうするとダブッたように見える・・・僕が仮にしゃべっていると、僕の体が二重にわかれて、別の形が表われて、そしてそれが矢張り<もの>を言っているという風に見える事がある。これが複体ですが、別に肉体から離れて守護神等が見える事があるのは、これはまた別であります。吾々の体というものは、そういう風に沢山重なってあるのですけれど、それが肉体とというものに宿っているというように考えると、これは便宜上の二元的な考え方であって、それは生長の家の考え方ではないのであります。
本当は全て一元的なのでありまして、一つの「生命(いのち)」の波がそういう風に幾種類もの波動を出してそれが重なっているのであります。>>
人間のオーラについて(P.193−194)
<<・・・オーラというのもある。「後光」とか「背光(はいこう)」とかいうように日本では名づけます。・・・肉眼には見えない。見えないけれども在る訳であります。人間にはそれぞれその人の心境に従って異なる色の後光を放っているということは、『生命の謎』の終わりに、霊界の説明がしてありまして、そこにオーラの幾種類もの色の説明がしてあるのであります。・・・例えば、人が怒っているときには、黒味がかった後光の中に時々パッパッと赤い稲妻の様な光が出ることが、霊眼で見るとわかるのでありますが、それらは肉眼で見える波長ではないのであります。併し何となく雰囲気としては、それを感じて「何だかこの人は御機嫌が悪いな」とわかる事になっております。>>
自心の延長としての環境(P.194−195)
<<オーラは肉体の直接周辺にありますが、またまたその外に我々の雰囲気が造っている世界があります。それは環境であります。環境というものは、自分の全然外(そと)にあるみたいですけれども、ある意味からいうと、本体からでたところの心の波が「霊体」となり、「幽体」となり、肉体となり、更に「オーラ」となり、更にそれが遠くまで及んで、自分の「環境」として現れたのだと見る事が出来るのであります。だから、「環境は自分の心の影」といいますけれども、自分の心の波それ自体がそこに具象化しているのだとみてもいい訳であります。結局自分の環境に現れて来るものは皆、自分自身なのであります。「外(そと)にあるものは一つもない、一切が自分である」という事になるのであります。だから環境に何事が現れてきても、それは自分自身の心だと反省しなければなりません。>>
エーテル体の役目について(P.195−196)
<<エーテル体というのはどういう働きをするかと言いますと、感覚の「座」であります。熱いとか冷たいとか、快いとか痛いとか、滑らかだとか、ざらざらしているとか、ともかくそういう感覚の媒体になるところの「体」であります。それは同時に幽体から発する感情の爆発を被覆してそれを調和ある程度に調節する役目をしているのであります。生理学者たちは肉体の神経系統とか、神経細胞というものが、熱いとか冷たいとか痛いとかを感ずるのであろう、と思っているらしいけれども、実はエーテル体が知覚の「座」であってそれを感ずるのであります。純粋に物質としての肉体の神経系統は痛いとも熱いとも感じないのであります。だから人間は、心臓麻痺とか、脳溢血とかを起こして倒れたり或いは癲癇(てんかん)を起こして倒れると、神経系統はちゃんとあるのに、燃えている火の中に倒れてさえも、熱い事もなければ痛い事もないのであります。即ち神経系統が熱いとか痛いとかを感ずるというのはウソであって神経系統というものは丁度、ラジオのコードみたいなものだから、それがなければ電流が通じないのと同じようで、感覚も知覚も起こさぬけれども、その電線(コード)に流れる電流みたいなものにあたるのがこの「エーテル体」なのであります。そのエーテル体が全身に充ち満ちておりまして、それが神経系統というコードを流れている時に感覚や知覚が起こるのです。エーテル体の一部は精神を集注するところへ集まり、また時々体外に放出されます。一番よく、どこから放出されるかと言いますと、手の指先であります。その次は掌(てのひら)、眉間(みけん)または額(ひたい)から放出されます。呼(は)く息と共に放出されます。これをインドのヨガの行者などは、プラナと言っているのであります。>>
幽体の役目について
(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.192−193)
<<幽体というのは、それは「想念感情の媒体」になっているところの体でありまして、感覚や知覚よりも一層複雑な「想念感情」の媒体であります。「想念」とは心に想う事であります。これは知性的なものであります。「感情」とは悲しい、口惜しい、残念だ、嬉しい、楽しい、なんていうようなのが、感情であります。腹が立つなんていうのも感情ですけど、それの「媒体」となり、それの「座」となり、「レコード」にもなって、それが其処に印象され、蓄積される「場」であります。色々の記憶などもこの「幽体」にちゃんと記憶されるのでありまして録音機のテープみたいなものであります。>>
五蘊(ごうん)の心霊学的解釈
(P.199−200)
<<仏教で言いますと、『般若心経』にあるところの『五蘊』すなわち、色受想行識のうち、「色」というのは物質であります。「受」というのは「受けて感ずる」機関であって、それが「エーテル体」であります。何だか向こうから光が当って明るいとか、或いはゴツンとなぐられて痛いと感ずるとか、みんな「受けて感ずる」のであります。併し、受けて感じただけでは、それが何物かわからない。そのピカッと光った光を、「ああ、あれは太陽の光だな」とか、ゴツンと当ったのは、「ああ、これは棒があたったんだな」とか「何某がなぐりやがったのだ。腹が立つ」などと判断して思うのが“想”なのであります。幽体はこの想念の「媒体」であり「座」でありまして、想ったり腹が立ったりするだけで、それを貯めていると膨れるのであります。「もの言わぬは腹ふくるる業なり」と兼好法師が『徒然草』に書いているように、想念感情を表現する事が出来ない場合は、幽体がふくれるのであります。心に想う姿の通りの形に幽体というものは直ぐ姿が変わるのであります。エーテル体は物質の液体のようにはドッシリした重い波動の体じゃなくて、非常に軽い波動の体なのであります。だから「想い」を象徴したような象(かたち)に直ぐ変わり易いのです。肉体は「物質」という重い波動の体でありますから、今腹が立ったからとて、それをじっと押さえていると、直ぐそれが肉体に一遍にふくれて出はしないですけれども、併し、幽体の方は「軽い波動の体ですから」直ぐふくれるのであります。例えば高慢の心を起こして天狗の心になりますと、直ぐズーと幽体の鼻が伸びて天狗の鼻のようになる。本当に幽体の鼻が高くなるのです。「あいつは天狗になっている」と高慢な人を評するのも、古人の霊眼のすぐれた人が、その人の幽体の鼻が高くなっている事を見て、そう言ったのだと思います。或いは嫉妬心を起こしたのを見て、「角をはやす」と言いますが、あれはどういう訳で嫉妬心を起こす事を「角を生(は)やす」などと言い出したのかというと、それは決してでたらめじゃないのであって、霊眼で見ると、嫉妬心を起こすと幽体に角が出るのです。それで古来、女には「八本の角がある」と言いまして、お嫁に行く儀式の時には「角隠し」というものを用います。それは、どうも女というのは、嫉妬心が強い、それで霊眼で見ると、角をはやしているように見える事が度々ある。だからそれを隠して、「今後結婚した上は決して角を生やしません」という誓いを立てることを儀式にあらわすという事になっているのであります。実際私は角の生えた心霊写真を見た事があります。心霊写真というのは、こんなことを申しますと迷信のように思う人があるかもしれませんが、決して迷信ではありません。科学にもいろいろありまして、物質科学に対して心霊科学があるのであります。霊魂の写真を撮ってみたりして研究するのは、心霊科学に入る訳です。>>
幽体と潜在意識との関係(P.215−216)
<<・・・我々の感情の媒体である所の幽体は、感情がふくれますと、ふくれますし、<いらいら>があると、<いらいら>したような炎症を起こしたような形になるのであります。それは一例でありまして、その人の感情の動きは千差万別で、いろいろの姿がありますが、直ぐその感情を転じないと、その幽体になった通りの形に、やがて肉体がその通りになる訳であります。 さて、その悲しいとか口惜しいとか、腹立ちとかいう思いを起こしますと、必ずしも全部、それが具象化して形にあらわれる訳ではありません。懐中電灯の乾電池のエネルギーが全部「光」になってしまうわけではなくて、その中に蓄電されているように、私達の起こした想念感情のエネルギーは蓄音機のレコードに刻みつけられたように蓄積されて残っているのであります。これが仏教でいわゆる「業(ごう)」であります。それではその業のレコードの蓄積されているところは何処であるかというと、その「場」を「体」としてみるとそれは「幽体」であります。その蓄積の「場」を心理学的に言いますと、「潜在意識」という事になる訳であります。心霊学では、その「場」を具体的に「幽体」として認め、心理学では、その「場」を抽象的に「潜在意識」として認めたのであります。潜在意識の中に悲しみとか、苦しみとかいうものが蓄積されているのであります。「意識」というと抽象的になってしまいます。では意識はどこにあるか、潜在意識の「座」は何者かということになると、それがすなわち「幽体」であって、幽体を「座」として潜在意識があり、その潜在意識に業(ごう)が記憶として蓄積されていると云う事になっているのであります。>>
人間は現実界と霊界とに二重に生活する(P.205−206)
<<・・・我々が住んでいるのは現実界に住んでいると同時に、そこの同じ領域(スペース)に重複してダブッてあるところの霊界にすんでいるのであります。我々自身の体が、霊界に属する霊と、物質界に属する肉体とがダブッているのですから、我々の霊(たましい)は、霊(たましい)の世界に住んでおり、肉体は物質の世界――この空気の世界に住んでおり、二重の生活をしているのであります。我々の魂は「霊の世界」に住んでおりながら、霊の世界の知事さんや市長さんのことは知らない人がおおいのであります。肉眼で見える方の県知事だとか市長だとか区長とかは知っておって、その費用として、税金まで払っているのですけれども「霊の世界」の区長さんの方へは挨拶にも行かんひとが多いのですが、霊界の区長さんとか町長さんの位にあたるのが、産土(うぶすな)の神さまという事になるのであります。現実界では引っ越してきたら、転入届けとか移転届けとかいうのを出す。現実界ではそういう習慣(ならい)があるのに、霊界のほうでは、その区長さんに何の挨拶も届けも出さないのは、礼儀に反する訳であります。・・・>>(注)守護神や産土神(産土の神)については『神ひとに語り給う――神示講義<教の巻>』の「万教帰一の神示」も参照して下さい。但し、第三代目・谷口雅宣先生はこの本を絶版処分とされました。理由は内容が現代には不適切と言う事のようであります。しかし、この理由は全く理解できません。
<注・コメント>
同書P.206には、<<・・・西洋の心霊研究はもっと科学的だから西洋の霊媒による心霊研究をしようと言う事になりました。西洋ではこれをスピリチュアリズムと云っているのであります。・・・外国の無数の心霊現象に関する著書などを集めました。私はその当時、浅野(和三郎)さんを中心に共同研究をしておりましたので、その時たくさん集まった西洋の心霊研究書を読んだのであります・・・当時のそういう方面の実地における霊媒の研究と、それから霊魂研究に関する無数の外国図書を読んだのが私の心霊方面に於ける知識の土台になっているのであります。>>と書かれております。開祖・谷口雅春先生はこの様な土台の上に更に、他の心霊研究者の誰もが到達されなかった最高の宗教的悟道に達せられて私たちに「霊と霊界」について“迷信的・非科学的”な要素・部分を捨象されて、現代の知識社会に合致するように極めて論理的に説かれているのであります。私達は、目には見えない霊界と目に見える三次元現実界の二つの複合した世界の中で毎日生活して居るわけですから、この世での病・悩・苦を解決し、物心両面にわたる幸福な生活を送る為にも、科学的かつ論理的な「霊と霊界」に関する知識を持って生活する必要が有り、学校教育においても一つの教科として扱われねばならないと思うのであります。現段階では難しいのであれば、家庭内教育として生活と密着して開祖・谷口雅春先生の説かれる「霊と霊界」のことを学んで身につけ実践して行かなければと思うのであります。
肉体は“人間”潜空服である
(『到彼岸の神示“神示講義・自覚の巻”』P.225−227)
<<我々が現実界に生きている間は、その肉体というものは、現実界で或る使命を果たす為に必要な道具として作られているのであります。肉体は人間の一つの皮袋であり、空気の圧力の下にあって仕事をするための潜空服または作業服であります。恰も潜水夫が、海のなかへ沈んで行って仕事をするために潜水服を着るようなものであります。・・・“人間”は本来“霊的存在”で自由自在なんですけれど、その霊的実在なる“人間”が空気の世界に降りて行って、或る使命を果たさんがために地上に降りて来る為に必要な「乗り物」というべきか、「作業服」と言うべきか、丁度、潜水夫の“潜水服”にあたるものが肉体なのであります。では、その肉体はどうして作られるかと言うと、内部に「心の波」が起こると、外部にその具象化として、形の肉体が出来上がるのであります。この事を聖経『甘露の法雨』には、「心の糸を組み合わせて肉体の繭(まゆ)を作り」と示されているのであります。肉体の創造は、肉体の分子や細胞を「外」から積み重ねて行く様に見えますけれども、実は内部から「生命」が「想念」の振動を起こしますと、その想念の相(すがた)の通りに外界に有機体組織が表現されて行くのであります。だから、「生命」が内部から起こす「想念」の波動が、不調和な想念でありますと、肉体にそれが表現されると「不調和な肉体」(病気)として表現されることになるのであります。しかも、この肉体はあまりに精巧に出来ているために、肉体それ自身に自動的な一種の「心」の働きがあるのであります。近ごろ、「電子計算機」とか、「人造頭脳」いう自動的に計算をしたり、回答を出したりするオートメーション装置が発明されまして、問題をその装置に提出しますと、極めて短時間に、人間が考えるよりも早く回答が出る。やがて、もう人間は考えることが要らなくなるであろうというような、そういう発明も完成しつつあるのであります。そういうように、あまり精巧な装置になって来ると、装置それ自身に、ものを考えると同じような働きをするようになるのであります。我々の脳髄というものも、そういう風に非常に完全に出来ているから、それ自身の意識を持つという事になっているのであります。彫刻の名人、左甚五郎のこしらえた花魁(おいらん)が自分で動き出したという芝居を見た事がありますが、宇治の或るお寺の山門に左甚五郎のこしらえた龍が彫刻してあって、その龍が、あまりに精巧につくられているために、魂が入って毎夜、宇治川に降りて行って水を飲んだという伝説があります。それを農夫が見て、非常に恐怖心を起こしたので、今ではその龍の彫刻が出遊びしないように金網をはってあるのだと云う事でありますが、それは単なる伝説か真実かは知りませんが、そういう創作品でも極めて精巧につくられたのを、“入神”の作品といいます。“入神”の「神」とは「たましい」という意味であります。兎も角、製作品でも、技神に入るというように立派に出来上がると、一種の霊的な働きをオートメーション的にするという事になるのであります。
肉体が「霊」を従属せしめるのは主従顛倒である (P.227−230)
<<それと同じ様に、その「肉体」というものは、人間の「生命」が想念の振動によってこしらえた機械であるけれども、それ自身がやっぱり「我」という意識をもっていて、自分で或る肉体的欲望をもち、肉体だけで、魂の統制を破って動き出そうとすることがある。つまり、むやみに食欲や性欲を満足しようとして「魂」の発達のことなどは考えない事があるのであります。「我が何々を欲する」といっても、その「我」の正体が、「肉体」という自動装置の「心」であるか「魂」そのものの「想い」であるかが問題であります。肉体は「魂」の使う道具であり「魂」が飼っているシェパードみたいなものであります。肉体は「本当の自分」じゃないので、一つの道具であって・・・所謂、五欲というやつが肉体それ自身の自動的作用として起こっている訳なのであります。それですから、これらの欲望は、“本当の自分”(霊的自我)のねがいではなく、肉体の自動装置から起こる作用ですから「自我」のように見えても「我」ではない。だから仏教では、このような「我」を本来「無我」と教えたのであります。ところが、この「ニセモノの我」は、本来「無我」であるのに、それに引き摺られて生活して居る人があります・・・肉体の性欲や食欲に霊(たましい)が無統制に引き摺られて行くのは、肉体というシェパードに霊が引き摺られていく逆様事(さかさまごと)であります。私たちが自由を得るには、どこまでも「肉体」というものを「人間」そのものだと考える考え方を捨てなくてはなりません。「肉体は人間に非ず」という事は、聖経や神示にも示されておりますし、いろいろの生長の家の書物のなかにも書かれてあるのでありまして、「肉体は人間ではない」と根本的に自覚することが、「自我の新生」であり、コンバーションであります。・・・>>
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