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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[4277] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第72回
信徒連合 - 2016年07月24日 (日) 08時53分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より R




<さらさらと流れる生活>


去年の8月31日、私の家では2人目の曽孫が授けられた。姉になった3年8ヵ月の明子の世話もあるし、20日間ほど石田さんに手伝いに来てもらった。石田さんは50歳半ばで、20年来の生長の家の誌友である。真理もわかっているし、優しくて行き届いた、好い方である。曽孫の明子も「おばさん、おばさん」となついてくれて、先日も「おばさんに、また来てもらって……電報を打って……」と、せがまれて、一晩来てもらった位である。

その石田さんが、百日ぶりできてくれて、こんな話をしてくださったのである。

「私は20日間、平岡先生とともに寝起きさせていただいて、とても教えられました。何より先生のお家には誰も小言をいう人がいないことです。赤ちゃんが家へ帰られた3日目(赤ん坊は病院で出産)に、産婆さんが、お湯を使わせに来てくださいました。私はその時お湯を運んだのですが、過って少しばかりではあったが、廊下の絨氈の上に、こぼしたのです。ハツとしました。先生は見えるところにいられたし、たしかに見えたと思うのですが、何にもおっしゃらなかった。

私は、あの時考えました。『これが私の家だったらどうだろうか。きっと、アレーとか何とか、人の心に棘さすような言葉が出るであろうに、このへんが違うんだなあ』と、考えさせられました。

それから気がついて見ると、先生の家では誰も、そうした声を出す人がいないということでした。類をもって集まっておられるのでしょうか。こうした生活の中でお互いに練りあげられたのでしょうか……」

それで、私は言った。
「石田さん、あなたは素晴らしい。きすがは真理の教えがはいっていたから、そういうふうに、善いところが掴めたのです。あなたは、アレーとも何とも、とがめる声を私が出さなかったと讃めてくださったが、それより前にとがめる心がなかったのです。実は、私の家にだって『チャリーン』と茶碗の壊れる音のすることもあるし、いろいろ失敗の場面もあります。しかしいずれの場合でも、それはそれですんだのです。

何故なら、茶碗は、時がくれば壊れる物質である、と解っているからです。そして、どんな大切なものでも、扱うものが過ちを犯すにきまっているからです。あなたが赤ん坊の行水に使う湯をこぼした。それは、あなたが扱ったからです。扱わない私が、こぼすわけもなければ、叱られるわけもない。そうしたことが本当に解っている私には、とがめる言葉の出るわけもないのです。

物によっては、惜しむ心の起こることもあります。しかし、考えて見れば、もう元へは戻らないし、とがめたなら、今一つ相手の心までこわす。これは、盗人に追い銭的な人生だと思うのです。どんなに大切なものを失ったからとて、その上、もっととり返しのつかない相手の心をこわすことは、実につまらないことだ、と気づいたときから、私は、相手をとがめることを慎しむ私になり、つつしめる私になったのです……」

「良くわかりました。言葉に出さぬ先に心に思わない、そこが大切なことなんですね。私は未亡人で、息子夫婦に孫2人の生活です。私は、家庭を暗くしないためにと思って、何にも言わないことにしていますが、今のお話を聞いていて間違っていたと解りました。思わないようにすること、これが大切だったのですね。念は通じることを教えられているのですから、言葉に出さなくとも心に描いたことは、自他一体ですから、嫌でも相手に通じるのですものね」

石田さんは、こう言ってから、笑い出されたのでした。
「物がこわれた時なども『アレー』という声がすぐ出る。これも、とがめる心が先きにあるからなんですね。それにしても、先生ほどになられると、何の苦労もなしにそんなになられたのですか。失礼なことをお聞きしますが……」

石田さんは、また笑い出されたので、私は再び話し出した。
『元来、私は無精者で、人のことは余り気にならない方です。それに、私はこの30年間、大阪や東京に住んでいて、あまり家族と生活することがなく、大方は他人さんと暮らしてきたので 言うまいと思えば3年でも言わない無頓着者でした。しかし、他人との生活はそれですんでも、家族となるとそうは行かないのですね。私は母の病気を機会に大阪の生活を切りあげて、郷里に帰りました。間もなく母が亡くなり、私と娘と孫の3人の生活が始まりました。

ところが、この3人が、いずれおとらず整頓能力がないのです。そのために、室などは何時もヒックリ返っているのです。それで自分のことは見えないが、ひとのことは見えるのです。気になるのです。それで私は一度だけ、娘に『もう少し、片づけたらどうだろう』と、注意したものです。娘は別に口では何にも言わなかったけれど、いやーな顔をしたのです。その時、私は考えました。

『少し片づいたところに、いやーな顔を見て暮らすのが良いか、少し位は片づかない中でも、楽しい顔を見ながら暮らした方が良いか、ここが思案のしどころだ……』と、考えたのです。

それで、私は小言を言わないことにしました。しかし、そこまでは訳なくきまったが、そのあとに難しい問題があることに、気づいたのです。それは、思わないことの難しさです。言わずにはいられるのです。だが、思わずにいることは難しい。口にはしなくても『もう少し片づければ良いのに』と思っていると、口にしないことを身体中で言っている。雰囲気となってバラまかれる。なまじっか真理を知っているだけに、余計に苦しんだわけです。

何とか本当の胸の安らぎを得たいものだ、と考えていた或る朝、私は朝の目覚めとともに、ふと天徠の声を聞いたわけです。

『私は娘の悪いところばかり認めて、あそこもいかん、ここも何とか直してやりたい、あそこが、ああなってくれたら、ここがこうなってくれたらなどと考えているけれど、これは間違っていた。朝から晩まで、私はどれほど娘の世話になっていることか。朝一番早く起きて、雨戸を繰ってくれるのは娘ではないか。で飯の用意をしてくれるのも、娘ではないか。掃除をしてくれるのも、洗濯をしてくれるのも、娘ではないか。そうした世話になっている私が、ろくろくお礼も言わず、有難いとも思わないで、戸をちょっと開けていったの、台所の草履の片方がひつくり返っているのと、口にこそ言わないが心は暗いところばかり見ていた。

真理を知れば知るほど、その真理のメスを逆手にもって、娘を審き孫を傷つけている。これでは、極楽作りのメスで地獄作りに狂奔しているようなものであった。

解った! 自分が整頓された室に起居したかったら、私が片づけたらよいのだ。娘のゆき届かないところは、私が補わせてもらえば良いではないか。戸がちょっと開いていたら、私が閉めれば良いのだ』こう気がついたら、嬉しくてうれしくて、何とも言えず心が明るくなったのです。そのうちに、気がついて見たら、家には小言も愚痴もなくなっていたのです」

要するに、家を明るくするための根本は、まず自分の心を明るくすることである。自分を明るくできないでいて、家庭の光明化も世界の平和もあったものではない、ということである。




<こころ一つでひらける世界>


三年ほど前のことであるが、Kさんの来訪を受けた。Kさんは若く見えるが、40歳を大分越していられたらしい。当時、ある会社の寮母をつとめていられたが、世話する人があって、後妻に行こうか、行くまいか、と思案中だったのである。

聡明で、ものわかりの良い方であった。一通りKさんの話を聞いてから、私はこんなふうに答えたのであった。
「相手の方には、すでに結婚した息子さんがあって、孫が2人もあるということですね。そうなると、その家へ入る場合のあなたの心構えが大事です。『私は、この家で一番あとから入った気の毒な存在』というような気持があったら、止めるべきだと思います。そうした気持で嫁いだら、あなた自身の不幸はもちろんのこと、先方の家庭も目茶苦茶になる危険があると思うのです。

では、どういう気持でなければならないのか。あなたの坐るべき座を、しっかりみつめて、その座を生かさねばなりません。あなたは、その家には嫁や孫たちのあとから入ることになるのではありますが、当主の奥さんという座にすわる大切な存在なのです。と言っても、あなたに威張れというのではありません。その立場は、その家のオフクロとして家中の人に暖かい愛の手をさしのべ、主人を助けて一家の繁栄をはかる大切な立場であることを認めねばなりません。そしたら、あなたはその家の大切な人として、あなた自身の幸福はもちろん、その家に光明をもたらす天の使いになれると思うのです」

 Kさんは、よく解ってくださったようであり、深く決意されたようであった。
そのKさんが再婚されて、まだ半年にならぬと思うころ、初めて私はKさんのお家に招かれて行った。大きな呉服商を営んでいられる家であった。はじめに、お茶を運んでくださったお嫁さんは、まだ20歳代と思われたが、私の前にキチンと坐って合掌されたのである。そして、お母さんを追って来た5歳と3歳位の2人の孫たちも、それこそ紅葉のような手を合わせて、「いらっしゃいませ」をしたのであった。

きいてみろと、新しいお母さんの感化で、もう家中が生長の家の信仰に入っていられたのである。20日後には、広い家を開放して、講演会を開かれたが、お店は繁栄の一路をたどっているのである。与えられた妻の座を生かした、尊い体験である。

そのKさんが寮母に就職されて間もない頃に、相談を受けたことがあった。会社に入って満3ヵ月もたつのに、未だに約束通りの給料が支給されないというのであった。その時、私はKさんに「この世には、損も得もありません。あなたは、給料以上に働きなさい。正当な報酬が与えられない時は、今は天の倉に富を積んでいるのだと思うのです」と言ったのである。

それで、Kさんの心がおだやかになったら、次の月から約束以上の給料が与えられたと感謝されたことがあったのである。この世は心一つの世界なのである。



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