| [5115] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第127回 |
- 信徒連合 - 2016年09月18日 (日) 09時41分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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藤原敏之先生「全てを癒やす道」より(4)
すべての背後に法則がある
それでは一体幸福を願って色々な努力をしながら逆に不幸になって泣いたり、苦しんだりしなければならないのはどうしてでしょうか。健康を願って注意に注意を重ね、用心しているのにどうして病気になるのだろうか。事故を起さないようにと自分も家族も祈るように思って注意しているのに何故交通事故に遭うのだろうか。繁栄を願って一生懸命まじめに努力しているのに何故倒産したり、営業不振で苦しまなければならないのか。何時までも夫婦仲よく暮す積りで結婚したのに、何故三月や半年で夫婦別れをしたり、明けても暮れても夫婦喧嘩をしなければならないのか。健康で優秀な、世の為、人の為貢献できるような立派な人間に育って貰いたいと願って、世話をして育てた子供が、どうして勉強嫌いや怠けものになって、親を泣かせたりするのか、このように数えれば際限りが有りませんが……。
このような矛盾がどうして生れるのか、解らないでただ迷うだけで、解決の道も方法も見当がつかないのです。
世の多くの人は物事が調子良く運ぶと運が良いと言い、はかばかしく行かないで悪い結果になると運が悪いと言います。何でも「運」「運」と言われますが、それでは「運とはなんですか?」と尋ねると「運って運ですわな」だけで何も解っていない。だからちょっと調子が良ければ有頂天になり、ちょっと調子が悪いと“青菜に塩”で一遍にしょげてしまうという、まるで七面鳥のように変るのであります。これでは不安で心配でしょうがないでしょう。
この運とは何かと申しますと、運とは“運ぶ”という意味です。運賃とか運送とかいう場合の運です。何が運ぶのであるかと言いますと、それは法則であります。
この世界には法則なるものが厳然として存在するのであります。これはもちろん見ることは出来ませんが、見られないからないということではありません。一番手近な例で一番解りやすいのは、皆様お互いの中に今現に生きて働いている生理の法則など、これはどんな唯物論者でも疑う人はないでしょう。またこれは疑うことの出来ない事実であります。無意識に、何も気付かずにいてもちゃんと息をしている。また心臓も動いている。食べたものをみんなちゃんと消化して、赤い血に変え、肉にも骨にも黒い髪の毛にも変えているこの働き、この事実を否定する人はありません。
しかし、それが何ものの働きであるかは解りません。ただ働いているのでありますが、それを一般には生理の法則と呼んでおります。生理とは生命(いのち)の法則という意味であります。
また、この大きな重たい地球が空中にポッカリ浮んでいて、しかも一日に一回転して夜と昼を造り、一年間に365回も回転している。一体何ものの力であり、働きであろうかと考えてみても解らない。そこで、専門の学者はこれは天体の法則であると言い、一般には自然だと言っております。
善業の種をまくこと
このようにすべてのものは法則によって動いている。このように一切のものをあるべき姿に現わし、あるべき位置にあらしめている不思議な何ものかを宗教では神とか仏とか名付けて、親しみやすいように人格化しているだけなのです。この法則を真理と呼んでいるのです。
真理というものは、普遍の理、絶対の法則であるという意味です。平等であり、永遠に変わることなく、どこでも、いつでも、誰にでも変らない法則です。この法則によって運命が造られるのです。この法則は万人に公平であり、平等であります。ちょうど乗物のようなものであります。この法則に乗って信じて任せ切れば、誰でも思いのままに幸福になることが出来るのであります。
仏教では、このことを因果律と申します。因果律とは、因縁結果の法則という意味で、善因善果、悪因悪果とも言います。善い種(因)を蒔けば善い実がみのり、悪い種(因)を蒔けば、必ず悪いものが生えるというのです。このことを“因果は眩(くら)まさず”と言って、絶対にごまかしがきかぬというのです。また仏教では業とも言います。善業は善果を現わし、悪業は悪果を招くと教えています。また、その業を分けて、身・口・意の三業ともいい、身体で行う業、口で現わす言葉による業、更に心に思う業と3つに分類しています。その中でいずれの業が最も強く働くかと言いますと、それは意業であると言われております。
身体で行う業は一番軽いとされています。“あの野郎、一つ殴ってやろう”と思って追いかけても、1メールも離れたら、どうしても打つことは出来ません。十メートルも離れていたら、どうすることも出来ないでしょう。だから身業というのは比較的軽いのであります。次に重い業は、口業です。口で罵倒するのなら、少しぐらい離れていても「バカヤロウ、お前なんか死んでしまえ」と大声で怒鳴ると、2,30メートル向うに居ても相手を怒らせることが出来ます。
次に最も重い、最も強い力を持っており、大きな働きをするのは意業であります。これは心で思うことですから、相手を呪い、憎むことは何万`離れていても通ずることが出来るとされております。この念力が、すべてのものを形の世界に造り出す、最も大きな力となり、働きをするのであります。ですからこの念力を間違った方向に働かすと、とんでもない結果を招くことになるのです。
このように、私たちの運命や環境を造り出す原動力となり、形の世界を現わす根本原因となるものは想念であり心であります。私たちを幸福にしたり、不幸にしたりするのは、心という乗り物、言い換えると心という運び手によることがお解り頂けると思います。
旅行するのでも乗り物を利用するでしょう。東京に行こうと思ったら、東京行の電車に乗るでしょう。九州に行こうと思ったら博多行きという電車に乗らなければ目的地に行けません。運命を造り出す心、目的に向って運ぶ心を正していかなければ、どんな方法で努力してみても幸福になることは出来ないのであります。願うことと、現われた姿、現実が食い違っているということは、どう考えても何かが狂っている、間違っているという証拠です。
何度も言うことですが、畠に大根を生えたのを見て、何を蒔いたか良く解らないということはないでしょう。“ああ大根の種を蒔いたな”と解ります。それは生えたものは、蒔いた種の現われであるからです。“大根を作って、お漬物にしよう”と思って、畠を耕し、種を蒔いて、肥料をやり、色々と世話をして出来たものがニンジンであったらどうでしょう。こんなのを矛盾と言い、これでは困るのです。願いと現実が食い違って来るからどうしようかと行き詰りを感じ、悩み苦しむのです。
困った時すがるのが宗教ではない
多くの人は、こんな時にお願いし、おすがりするのが神様であり、宗教の力であると思っておられるようですが、それが考え違いなのです。神様というのは困ったときに上手にお願いし、熱心に頼んだら、“そんなに困って、そんなに熱心に頼むなら、よし!!何とかしてやらなければなるまい”と腰を上げて助けに来て下さるというような救い方をなさるのではありません。そんなのは正しい信仰ではなく迷信です。
迷信では、どんな方法でも本当の救い、本当の解決にはなりません。世の中には沢山の宗教があり、色々な教えがあります。しかし幾らやっても、いっこうに成果が上らない、また本当の安心も得られない、本当の救いともならない、というのは、そのいずれもが相対的な信仰であり、一見信仰のようには見えても、それは当てにしているということで、本当の信仰ではないからです。
一般に“信ずる”という場合は条件を対象にしています。「あの人は立派な人だから、人格者で、正直な人だから、私は信じます」「あの人は他人をだますようなことはしない善人だから私は信じます」などと言います。この場合の信は、“正直だから……”とか“いい人だから……”とか“人格者だから……”とかいうように、ある条件や状態を対象にした信ですから、これは信仰ではなく信頼です。宗教で言う“信”とは、あくまでも信仰であって、信頼ではありません。本当の信仰なら、どんなことがあっても絶対にゆるぎませんが、信頼は時と場所によって、また相手の出方次第で、たちまち動揺します。
このような信では、金剛不壊の信とはならず、平穏無事で何事もなければ落ち着けて、安心もしておられますが、一度状態に変化を来たし、期待に反したことが起ると、たちまちにして壊れてしまいます。一所懸命精進し、努力しておりながら、心の奥底の方では何となく、不安を伴い、物足りなさを感じるものであります。これでは大安心の境地に達したとは申しません。中安心ぐらいになります。
皆様、生長の家はこの大安心に達し得るところの超宗教なのです。生長の家のみ教えは唯神実相哲学であり、神一元、実相一元に徹する教えだからであります。現象や条件を信じるのではなく、神を信じ、神だけを対象に生活する教えだからであります。神以外は徹底的に否定し、実相以外は断じて肯定しないという徹底した教えであります。一般の宗教論理を超越したところの救済法なのです。この真理を体得しない者には想像も及ばないところの、全く次元の違う教えであります。
人間は神の分身分霊であり、神の生命そのものであり、元々完全円満であって悪いものや不完全なものは一切ないのでありますからどうしなくても完全なのであります。わかってもわからなくても、知っても知らなくても完全なのです。わかり方や方法や、努力次第で善くなったり、悪くなったりするものではないのであります。
病気や不幸はもともとないから、どんな方法でも消えるのです。この宗教だから救われた、この教えだから病気が治ったというのは、あの医者にかかったら病気が治った、この薬を飲んだからよく効いて病気が治ったというのと同じであります。それは宗教が良いから、神様が特別に愛が深いからとか、神様がえらいから、力があるから、お願いをよくきいて治して下さったというのではありません。その人の心の状態、その人の信じた程度によって現れるのです。
この薬はよく効くというのでも、それは薬という物質が効くのではなく、飲む人の信頼の度合い、信じた程度によるのです。
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