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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[5129] 『新潮45』のメチャクチャな記事 (唐松模様)
サーチャー - 2016年09月19日 (月) 07時42分


<唐松模様>
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2016年9月18日 (日)  『新潮45』のメチャクチャな記事


 こんな表題で本欄を書かねばならないことは誠に遺憾だが、メチャクチャを書かれて黙っていたら、その内容を認めたことになると考え、不本意ながらキーボードを叩いている。新潮社発行の『新潮45』が10月号で“いま宗教に「救い」はあるか”という特集を組み、その中でフリーライターの藤倉義郎という人物が“「反安倍」となった日本会議の母体「生長の家」”という題の記事を書いている。このタイトル自体はそれほど問題はないが、副題となっている次の2行の文章がデタラメなのだ。曰く−− 


 政界にも人を送り込んだ「右翼教団」は、いつの間にか「エコ左翼宗教」となっていた。現総裁は、創始者の信者を追い出し、親兄弟をも排除し、「自分の宗教」を作りあげた。 

 −−こういう言い草は今、生長の家の運動に反対して嫌がらせを続けている“反対勢力”の主張そのものである。それをそのまま記事にするような人が、はたしてジャーナリストと言えるだろうか? きちんと教育されたジャーナリストならば、取材対象とした二者の間にもし争いがあるのだとしたら、その双方の意見をきちんと聞いてから、それぞれの主張を紹介し、自分の判断を述べるべきだ。にもかかわらず、記事を書いた藤倉氏は、一方の主張だけを延々と書きつらね、私たち教団側の主張については、公式発表の差し障りのないものだけを紹介し、あとは私を名指しして言いたい放題に批判している。いったい藤倉氏は、私に何か個人的な恨みでもあるのかと疑いたくなる。 


 私も短期間だがジャーナリストとして生活していた経験があるから言わせてもらうが、こんな記事は、私の時代にはデスクの段階でボツになるに決まっている。「掲載に耐えない」と判断されるのだ。理由は「客観性」「中立性」がないからだ。そういう種類のものが一流の出版社が出す月刊雑誌に堂々と掲載されるということは、日本のジャーナリズムは相当質が低下したと考えざるを得ない。実に嘆かわしい現象だ。本欄の読者に助言申し上げるが、興味のある方はこの記事を読んでくださっても構わないが、「定価880円」を出して買う価値は決してない。立ち読みで十分であるし、その時間と労力ももったいない。他のもっと重要なこと、楽しいことに使われた方がいい。 


 上記のことから分かるように、藤倉氏の記事は、ほとんど裏付けのない事柄を独断的に書き、独断がマズイと思う箇所は、取材源の人物名を書いて、その人物に好き放題を言わせている。ところが、その人物は誰かと思えば、生長の家以外の人間であったり、生長の家との裁判で係争中の相手だったり、はたまた反対運動の熱心な推進者である。これを「一方的記事」と言わずに何と言うべきか。 


 こういう取材態度や断定の中で私が最もデタラメだと感じ、怒りを禁じ得ないのは、私と父の第2代総裁、谷口清超先生との間に「親子対決」があったという事実無根の話だ。それを言っているのは「犬塚博英」という生長の家の職員だったことのない人物である。その犬塚氏が、さも内情通であるかのように記事に登場し、私が副総裁に就任した頃の“内情”と称して、こんなことを言っている−− 


「当時は総裁と副総裁が父子間で主導権争いをしていた。これには家族関係をめぐる屈折した感情もあったようです。雅春先生は、しつけに厳しく、雅宣氏が食事中に誤って味噌汁をこぼした際、雅春先生から床にこぼれた味噌汁をすすらされたというエピソードもあります。そんな祖父に対する恨みが強かったように思います」 


 なんというメチャクチャな論理だろう。私が副総裁になったのは、父の谷口清超先生から薦められたからで、父子間の対立などなかったからである。また、“味噌汁事件”は、私が小学生の頃の笑い話だ。味噌汁がこぼれたのは「床」ではなく、漆塗りの「卓袱台」の上だった。私はその漆の香の混じった味噌汁の味を今でも懐かしく思い出す。それは祖父への恨みなどではなく、「食べものを粗末にするな」という教えとして受け取り、感謝の気持をもってその教えの通りに今日まで生きてきている。冷静に考えれば、生長の家に勤めたこともない犬塚氏に、私のそんな心情など分かるはずはないのに、取材した藤倉氏は、悪意からでなければまったく安易に、犬塚氏のいい加減な憶測を事実と受け取って記事にしている。 


 だいたい万が一、私が祖父を恨んでいたとしても(もちろん事実ではないが)、その恨みがどうして祖父ではない父親に振り向けられるのか? 人間性の理解という面でも、藤倉氏は実におざなりである。明治生まれの祖父は確かに厳格だったが、大正生まれの父は自由主義者だった。そんなことは、教団の内部ではよく知られていることで、取材不足もはなはだしい。私に留学の資金を出してくれたのは祖父であるし、留学後は新聞記者になることに賛成してくれたのは、父である。個人の自由意思を重んじる父は、「教団へもどって来い」などとは言わなかった。私は若い頃のこの2つの経験を大変貴重なものと感じており、祖父と父には感謝しこそすれ、恨みに思うなどと考えるのはトンデモない妄想である。 


 このように、藤倉氏のトンデモ記事について私の言いたいことはいくらでもあるが、時間のムダ遣いはしたくない。読者にはとにかく「読む価値のない記事」であることを知っていただき、間違っても「880円」をムダにしないでいただきたい。 


 冒頭で「日本のジャーナリズムは廃れた」という意味のことを書いたが、もっと正確に言えば、「大手ジャーナリズムは廃れた」と書くべきかもしれない。なぜなら、『週刊 金曜日』という週刊誌は、日本会議と生長の家との関係について私にきちんと取材し、今年8月5日−12日合併号と同月19日号で公平な記事を書いてくれている。このインタビュー記事は、同誌の御好意で、近く発行される『生長の家』誌に転載される予定である。読者はどうか、こちらの記事にあることを事実として理解していただきたい。 

 谷口 雅宣   2016年9月18日 (日)
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(7)
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[5134]
サーチャー - 2016年09月19日 (月) 07時57分


<トキ掲示板(本流対策室/6)>


3293 :トンチンカン :2016/09/19(月) 07:31:15 ID:7Vw8/kHk

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<裁判>大好きな・・ 「マサノブ爺さん」は・・

『新潮45』を相手に・・??  <ガセネタ>だったら・・ <裁判>よね・・
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