| [456] しぶしぶ書いた9月5日の「枯れ松模様」―――ジュンコ君にお尻をたたかれて? |
- 遮那王 - 2015年09月06日 (日) 14時14分
「平成27年(2015年)9月 5日 「唐松(枯れ松)模様」=ローマ教皇の“環境回勅”(5) 全文
<< 人間が、自然界の他の生物より優れている理由は何だろうか? 前回の本欄で触れたように、生長の家では、人間は「神の最高の自己実現」であると説いているから、理由は明白だ。神自身が人間を通して、この世界に自己表現をしていると考えるのだ。「人間は神の子」であるという教えは、人間以外の生物を貶めるためにではなく、人間が他の生物にない“神的”な自覚を有しているという点にこそ重点がある。その点を、今日のカトリックの教えはどう捉えているのだろうか? 回勅はその65〜67番目の段落で、『創世記』の天地創造の物語を扱い、人間がなぜ他の生物より優れているかの理由を、次のように述べている−−“『創世記』の最初の創造の記述では、神の計画は人間の創造を含んでいる。神は男女の人間を造ったあと「神はその造りたるすべてのものを見給いて、『とても良い』と言われた」のだ。(第1章31節)聖書は、あらゆる男女は神の愛により、しかも神の似姿として創造されたと教えている。(第1章26節参照)これは、人それぞれには偉大な尊厳があることを示している。それぞれの人間は単に「何か」であるのではなく、「誰か」であるのだ。彼は、自己を知ることができ、自己を所有(支配)することができ、自由に自己を他に与えることができ、他の人々と協力関係に入ることができる。聖ヨハネ・パウロ2世は、それぞれの人に対する神の特別の愛は、「彼または彼女に無限の尊厳を与える」と言った。人間の尊厳を護ることを重視する人々は、キリスト教の信仰の中にその最も深い理由を見出すことができるだろう。それぞれの人の生が、純粋なチャンスや終りのない円環に支配される世界の、希望のない混沌のただ中に浮かんでいるのではないという確信は、何とすばらしいことだろう! 創造主は、私たち一人一人に向かって「あなたが子宮の中で形づくられる前から、私はあなたを知っていた」(『エレミア書』第1章5節)と語りかけることができる。私たちは、神の御心の中で生を享けたのである。だから「私たちそれぞれが神の御心の結果である。それぞれが神に望まれており、愛されており、神にとって必要である」のだ。”
回勅のこの文章は、人間が他の生物より優れている理由は、「神の似姿として特別の愛を享けている」からで、神にとって必要であるからだと述べているようだ。しかし、「神の似姿」とはどういう意味であるかは、明確でない。上の記述に沿ってあえてその意味を想像すると、それは自己認識、自己支配、他者のための自己放棄と協力−−そういう能力を人間が与えられているからだ、ということになるだろうか? では、神の特別な恩寵を受けたこのような人間が、神の創造になる自然界を破壊するなどの罪をなぜ犯したのか。これについての解釈が、66番目の段落で記述される。回勅はまず、人間の生というものは、3つの基本的で、相互に結びついた関係の上に成り立っているとする。それは、神との関係、隣人との関係、そして地球それ自体との関係だという。生長の家的な表現を使えば、神・自然・人間の相互関係である。そして、聖書によれば、この3つの重要な関係は外向きにも、内向きにも破壊されていて、この断絶が罪であるという。では、なぜそれが起こったか−−“創造主、人間、被造物全体の調和が途絶えたのは、私たちが神の地位に上ろうとし、自分たちの被造物としての限界を認めることを拒否したからである。このことが、逆に「地を従わせよ」(『創世記』第1章28節)と「耕し守れ」(同書第2章15節)という神の命令を誤って読み取らせた原因である。その結果、本来調和的な関係にあった人間と自然とは、対立することになった。(同書第3章7〜19節)アッシジの聖フランチェスコがすべての生物との間に経験した調和が、この関係途絶を癒す道の一つであると見られたことは、重要である。聖ボナボンチューレも、あらゆる被造物との全的調和を通して、聖フランチェスコはなぜか本来の罪のない状態に回帰することができたと述べている。このことは、今日の私たちが置かれた状況からほど遠いものだ。現在は、罪が様々な形で、戦争その他の数多くの暴力や虐待、最も弱いものの放棄、そして自然への攻撃の形で現れている。”人間同士はもちろん、あらゆる生物との全的調和を通して、“神の似姿”としての本来の人間の姿が顕現し、罪のない世界が実現する−−回勅のこれらの文章からは、こういうメッセージが読み取れるのではないか。「大調和の神示」の教えを思い出す人は、私だけではあるまい。 谷口 雅宣 >>
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< マサノブ君の主張 >
人間が、自然界の他の生物より優れている理由は何だろうか? 生長の家では、人間は「神の最高の自己実現」であると説いているから、理由は明白だ。神自身が人間を通して、この世界に自己表現をしていると考えるのだ。「人間は神の子」であるという教えは、人間以外の生物を貶めるためにではなく、人間が他の生物にない“神的”な自覚を有しているという点にこそ重点がある。・・・「神の似姿」とは・・・それは自己認識、自己支配、他者のための自己放棄と協力−−そういう能力を人間が与えられているからだ、・・・ では、神の特別な恩寵を受けたこのような人間が、神の創造になる自然界を破壊するなどの罪をなぜ犯したのか。・・・生長の家的な表現を使えば、神・自然・人間の相互関係である。そして、聖書によれば、この3つの重要な関係は外向きにも、内向きにも破壊されていて、この断絶が罪であるという。では、なぜそれが起こったか−−・・・現在は、罪が様々な形で、戦争その他の数多くの暴力や虐待、最も弱いものの放棄、そして自然への攻撃の形で現れている。”人間同士はもちろん、あらゆる生物との全的調和を通して、“神の似姿”としての本来の人間の姿が顕現し、罪のない世界が実現する−−回勅のこれらの文章からは、こういうメッセージが読み取れるのではないか。「大調和の神示」の教えを思い出す人は、私だけではあるまい。 谷口 雅宣
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< 講評 >
@ 自称・マサノブ総裁の表看板「唐松模様」が開店休業状態に入って、丁度2ヶ月になる「枯れ松」直前において、何故突然の一日開店をしたのか? 先ずこの疑問を多くの信徒たちが考えたと思われるのであります。八ヶ岳南麓の「マサノブ教」総裁邸のリビングルームで交わされたであろうマサ&ジュン夫婦の会話を想像して見る。
ジュン: あなた、9月7日は何の日か知ってる?
マサ : 別に特別な日ではないだろう?
ジュン: とぼけないで! シッカリしなさい! 「唐松」が「枯れ松」になる日なのよ。
マサ : ん?? そういえばそうだねえ・・・
ジュン: このままでは「掲示板」でまた叩かれるわよ。「とうとう開店休業2ヶ月達成、新記録です。“唐松”は完全に“枯れ松”になってしまいました」ってね。あなた、悔しくないの?
マサ : そりゃ〜、悔しいよ。だけど、何か書けばマッテマシタとばかりに信徒から引っぱたかれるからサ。正直、書くのがイヤになって来たのだ。
ジュン: あなた、何言ってるのよ。私も「弁当屋さんだね?」、「どこへ行って来たの?」などと叩かれながらも必死のパッチをはきながら、お弁当やさんを開き続けているのよ、分かってよ。
マサ : わかったよ、ジュンコ。書くよ、書くよ、叩かれるのを覚悟して書きます。だから、これ以上怒らないでネ、ぼくの大切なジュンコ奥様・・・
まあ、こんなところかも知れません、私の想像では・・・
A ローマ教皇の回勅の内容はそれとして、マサノブ君の書いた彼の考え方の問題点は、「またか」という事なのであります。つまり、マサノブ君は自分の個人的見解(サヨク唯物現象論)を「生長の家」の公式見解としている点で、今回もそのように書いているのであります。
B 今回の文章を一読して誰もが思う事は、「偉そうなことを又言っているが、自分では実行していないではないか? “言行不一致”の状態での偉そうな講釈や説教はお前には余りにも不釣合いだ! 未だわかっていなかったのか? 早く総裁の座を降りろ!」ということであります。
C 『言行不一致』居士!! 今やマサノブ君の代名詞となってネットで全世界に拡散されました。『蜘蛛の糸』も『毒喰らわば皿までも』・・・「マサノブ教」流行語大賞――といったところでしょうかね。
D マサノブ君は言う。「現在は、罪が様々な形で、戦争その他の数多くの暴力や虐待、最も弱いものの放棄、そして自然への攻撃の形で現れている。」 ⇒ 脚下照顧!
1、「マサノブ教本部」では、谷口雅春原理主義者狩り
2、諫言者への降格、減給、左遷、自発退職へ追いやる職場環境の汚染と破壊
3、マサノブ君の「言葉の暴力」
4、絶対権力者として君臨して、ニンジンを突きつけて信念の薄い弱いものイジメをして楽しいんでいる。
5、戦争は反対を叫ぶが、中国共産党に対しては尻尾を下ろして吠えない。韓国にも寛容、つまり、反日・マサノブは本当の勇気を持っていない。タダ、金持ちであるお山の大将、エエシのボンボンにしか過ぎない
E マサノブ君は更に言い続ける、―――<“神の似姿”としての本来の人間の姿が顕現し、罪のない世界が実現する >
―― マサノブ君に問う、自分自身はどうなのか? 現在の君は「神の似姿」が表れていない。完全なる「神性隠蔽」ではないのか。
F < 人間同士はもちろん、あらゆる生物との全的調和・・・「大調和の神示」の教えを思い出す >
――― しからば問う! ご兄弟や恵美子先生との全的調和はどうする気なのか? 明確に答えて見よ、マサノブ君。白々しいことを二度と書くな!
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