| [5491] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第201回 |
- 信徒連合 - 2016年10月24日 (月) 07時25分
<再掲示>
インターネット道場――
「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)
第201回
マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。
「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。
また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。
インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。
そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。
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他界への出生の実証
死の瞬間を透視せる実験
(「人間死んでも死なぬ」P.65−68)
<<1919年フランス学士賞を受けたセブラユー博士の『心霊界の実証』には次のごときことがのべられてある。―――
『私の透視力は親しく死者の枕頭で、死の現象について心霊的および生理的研究を行うのに好都合でした。死者はしばしば私の医療を受けた事のある六十歳くらいの老婆でした。いよいよ死ぬ時機がやって来た時、私の身体は幸いにも達者で、私は自分の透視力を充分応用する事が出来ました。
・・・しばらくして、患者の頭の周囲には輝きを帯びた雰囲気が集まってきました。頭部を囲(めぐ)る雲状の雰囲気からは、更に頭が出来てその形は次第にはっきりした形になりました。最初は見るのも眩(まぶ)しいくらいに光り輝いていましたが、このガス状態の頭の形は凝結するに従って光輝ある雰囲気を失ってきました。・・・こうして私が透視力でこの時起こりつつある心霊現象を見ていますと、室内の人々は物質の眼で臨終の痛苦と悲歎(ひたん)とを眺めていましたが、それはその真相を誤解したものに過ぎません。
それらの苦痛の悲痛も要するに生き生きとした霊的理智体が肉体から離別する現象に過ぎなかったのです。肉体から抜け出た霊魂すなわち理智体は屍骸の頸(くび)の部分と直角を保って頭上に起立していました・・・そこで私は死は霊魂の再生に過ぎないとの確信を獲(え)ました。
霊魂は死を通して<下級の状態>から<上級の状態>に移るのです。実際、霊魂が他界に生まれるのは赤ん坊がこの世に生まれるのと何もかも一致しています。臍の緒(へそのお)に当るべき霊線さえも、さきに言った通り完備しているのです。
霊線は暫時、霊肉両種類の有機体を連絡していました。その際わたしは嘗て予想すらしなかった新事実を認めました。すなわち、繋いでいた霊線が切れるや否や、霊的流動体の一小部分が肉体に還ったのです。この還流した霊的流動体は屍体の各部に浸透して、暫時の間、屍骸の腐敗分解を防止するらしく想われます。
一方、屍体から抜け出した流動質の有機体の新しく出来上がった形は、大体肉体に似通っていました。この霊魂体の内面的心理状態は如何なるものであるか、私としては知る事は出来ませんが、その態度で見ると、屍骸の周囲に泣き悲しんでいる人々に対しては心を痛める様子もなく、むしろ意外に感ずるような有様でした。彼女は周囲の人々が事実の真相について無智であることを憐れむもののようでした。』
透視と云うものが必ずしも信頼し得べきものでないことは、勿論われわれも熟知している。しかし、上記のような観察の価値は疑う事は出来ない。多年確実の定評を博したすぐれた透視家のこの種の証言を無価値と見るのは寧ろ頑迷だと云うべきである。また上記の描写は又多数の他の人々の観察と一致するので、真の光景を明らかにしたと解すべきである。
しかし、吾々の提示し得る証拠は透視家のみに限ってはいない。ひとたび死んで又甦った人々の陳述も亦他界の生活を描写して、しかも透視家の観察と符号しているのである。ひとたび冥界への境を超えた後、再び現世に帰った人があの世の状態はこうであったと物語る事は往々あることであるが、特にその人が炯眼(けいがん)な学者などである時は、その証言は更に価値を増して来るものである。>>
ひとたび死して蘇生せる人の体験
(「人間死んでも死なぬ」P.68−78)
<<其の適切な一例と云うべき米国の医師イルテェ博士の経験で、博士は大要次の如くに陳述している。
「最後の私の瞳は収縮し、意識は衰へ、音声は弱り、一般に重々しさの感じを覚えた。私は手足を広げようとして烈しく努力して見たが、結局のところ、両手を胸の上に交わして、硬くなった指を組み合わせると、忽ち全く無意識に陥ったのである。
「その時に看病していた医師は唯レインス博士一人だけであったが、後に博士にたずねて見ると、私の脈拍は四時間の間、一つの心臓の微動さへ示さずにじっとしていたそうである。枕元にいた人々は、私を死亡したものと思い、私の訃(ふ)は早くも近隣に伝達されて、村のお寺も弔いの鐘を撞(つ)き始めたそうである。
「レインス博士だけは、私の顔を見てかすかながら呼吸があるような心地がしたと云うので、全身の諸所に針を刺して見たが生命の反動は起こらなかったそうである。私自身は絶対に無意識で思考力も感覚も少しもないのであった。
「併し、やがて存在の意識が立ちもどった。私は今なお肉体中に止まっていることを感じたのであった。併し肉体と自分とは最早関係がないような気がした。・・・
「私は静かに考えて見た。そうして私は普通の言葉で云えば死んでいるが、然しこれ程明確に生きているのは初めてだと思った。私は今肉体をはなれようとして居るのだと感じた。
「私は魂が肉体を離れる状態を注意して見ようと思った。と、内部からとは思われないある力が私の全自我を振盪(しんとう)しはじめた。その有様は丁度揺籃で霊魂が肉体から分離するのだろうと思われた
「此の横の方向からの動揺が済むと、私は両足の裏に拇趾(おやゆび)から踵(かかと)のところまで、幾筋もの細い糸がたゆみなくビリビリ顫(ふる)へるような感じを覚えた。その音さえ聞こえたと思った。やがて私は足の方から頭部に向かって徐々に抜け出して行きつつあるのを感じた。腿(もも)のあたりまで抜け出した時、私は「サァお臀(しり)から下はこれで死んだ訳だ」と呟いた。
「腹および胸のところを通りぬけたことは私は覚えていない。が、全てが頭の中に集注してしまったように思われた時の記憶は明確である。実際私は『さあ俺は完全に頭に集まったな。これから間もなく肉体を離れるのだ』と省みて思ったことを記憶している。・・・私は頭蓋骨の縫合線から脱出した。・・・
「其の時わたしの枕元には二人の婦人が看護していた。女の膝と病床との間には私の通るだけの広さが空いていたが、私は今抜け出たばかりの身体に何物も着(つ)けていないので、婦人の前をとおるのを非常に恥ずかしく感じた。が、私はまだその時多少肉体に結びつけられていた。私はまだ管から離れてしまわないシャボン玉のような塩梅(あんばい)に、右や左にふらふらしていたのであった。
が、遂に私は肉体から離れて、軽く床の上に降りた。その時、私はもう普通の人と同じような姿かたちで床の上に立ち直った。尤も私自身は青い炎のように透明で、身体には何物も着ていなかった。
それゆえ私は病床の側の人々に視られるのをはずかしく思い、皆の視線を避けるために戸口の方へ忍びやかに進んだ。が、戸口の所へ行って見ると、私はもういつの間にか着物をつけていた。これならもう恥ずかしくはないと思って、皆のところへ帰ろうとした。と、私の左の肘(ひじ)は戸口に立っていた二人の男のうち、一人の腕と衝突した。が、驚いたことにはその人の腕は何らの抵抗もなしに私の肘の中を通過したのである。そして、中断された私の肘は何の苦痛もなしに、まるで空気で出来ていたもののように、次の瞬間には融合して原形に復(かえ)っていた。
私はその人がこの衝突をどう感じたかしらと思って、周章(あわ)てて彼の顔を見た。が、彼は何の接触も感じたらしい様子もしなかった。彼は私の病床を見つめたまま、依然として佇(たたず)んでいるのであった。病床はと見ると、私の屍骸は私が努力して整えておいた通り、やや右方の姿勢を取って両足を真直ぐにならべ、両手を胸の上で交わして、はなはだしく青ざめた容色で横たわっていた。数日間鏡に向かわなかった私は、屍骸の顔の青さに自分ながら大いに驚かされた。併し屍骸の姿勢については整っているのを満足に思った
「私は屍骸の周囲に腰かけ、若しくは立っている数人を認めた。二人の婦人が屍骸の左側に跪いて泣いている様子も見えた。その二人が私の妻と妹とであったことは後になって知りえたのであるが、その瞬間には個別の人格の意識はなかった。妻も姉妹も朋友も全てが同じように感じられた。
「やがて私は永世(かぎりなきいのち)の確実であることを示すために、人々の注意を引いてみたいと思った。私は皆の真中に立って喜ばしげに挨拶し、右手をもって敬礼した。併し誰もそれに気がつかなかった。私は可笑しくて堪らなくなって突然大声で笑い始めた。『これなら聞こえるだろう。』と、私は思ったが彼らは依然として屍骸に眼を向けたまま私には気がつかなかった。
「皆は肉眼で見るので、心霊を観取し得ないので、屍骸を私だと思って一心に見詰めているが、それは真相を誤解している。屍(しかばね)は私ではないのだ。私は此処にいる。以前よりも遥かに生き生きとしている――こう思いながら私は屋外へ歩み出した。開いている戸を通過する時には顔を俯向けて足場をさがし、閾(しきい)をこえ、階段を降り、そうして街道へと出て往った。
「あたりの光景を見まわすと、私としてはその時ほどにハッキリとものを見たことはなかった。土の赤さも雨上がりの水溜りも見えた。私は長旅に出かけて行く人のような懐かしさで周囲をながめた。私は自分の丈(たけ)の高さが以前の肉体よりも高くなっていることを知って嬉しく思った。私は肉体にいたころには、常に自分の丈の低いことを引け目に思っていたのである。『さあ此の新生涯では何事も思い通りになるのだ』と私は心の中で思った。
「着物も私の高くなった身体に至極適当したもので、私はそれが自分に着せられていることを意外に思った。服地はスコッチ織の一種で、贅沢ではないが、小奇麗なものであった。『好い心地だなあ』と私は呟いた。然も数分前までは私は大病でいたんだ。これが私があれ程怖れていた死と呼ぶ変化であろうか。万事はすんだのだ。そして私にはいのちも思想も充ち満ちていた。
これまでこんなに精神のハッキリしたことはなかった。何と云う幸福な状態だろう。最早病気も死亡もないのだ。私は喜びにみち溢れて雀躍(こおど)りしながら、又しても自分の姿と衣服とに見とれた。
「ふと、私は自分の上衣の背中に細い線があるのを見た。『どうしたんだ。自分の背中が見えるなんて。』こう思って私は又しても上衣の背中から両脚を踵(かかと)に到るまで見返した。手を顔に当ててさぐると両眼はたしかに当たり前の位置にある。『して見ると私は梟(ふくろう)のように真後ろに顔を振り向けることができるのだろうか』と思って、私はやって見たが出来なかった。そこで私は私の肉眼がまだ物を見る力をもっているのかも知れぬと思い、屍骸の方へ振り返った。屍骸は半ば開いている戸口を通して正面(まとも)に見ていたが、私は蜘蛛の巣のような一本の細い糸が私の肩の後ろと屍骸の頭の付け根とをかすかに連絡して居るのを見た。
「なるほど、あの糸で私はまだ自分の肉眼は使用し得るのだと結論してから、私は道路を歩み出した。が、数歩も歩くと意識を失ってしまった。
「気がついて見ると私は身体の両側を誰かの両手で支えられながら宙に軽く浮動していた。その両手の持ち主は私の後ろ側にいるものらしく、迅速にしかし快く私を前方へと推し進めているのであった。やがて私は四十五度以上の勾配をもってのぼる、狭い、併しよくしつらへられた通路の入り口に軽々と運ばれた。遠方を眺めると空および雲は生前の高さと同一である。下方を見ると鬱蒼たる森林が瞰下(みおろ)される。そうしてそれらの森林の頂も雲ほど遠いのだと私は思った
「私は道路が何を材料として出来上がっているかを調べて見たが、それは乳色の石英の綺麗な砂であった。私はその一片を拾い上げて精密に点検した。中央には小さい黒点がある。私はそれをよくよく調べて見たのであるが、それは或る金属の化学作用によって穿(うが)たれたらしい孔(あな)であった。
「折りしも雨が降りそそいでいた。空気は極めて爽やかである。道の傾斜は極めて険しかったが、歩むのに少しも疲れを覚えない。私の足は極めて軽く、歩きぶりと云ったら子供のように不確かであった。歩いていると心の中に生前の病気のことが思いだされた。私は健康が回復し、力のついたことを嬉しく感じた。
「しばらくすると、私は自分の孤独を堪らなく淋しく思った。『毎分間に誰かが死んでいる筈だ。私は三十分も待ったのであるから、誰かあの山間で死んで、私も道連れとなるに相違ない』と私は推量しながら、周囲へ眼を放った。東方には連山がうち続き、その山腹の森林は頂までのぼっている。下方には鬱蒼たる森林の渓谷を貫いて美しい小川が流れ、それは数えきれぬほどの白い飛沫を打ち上げていた。私はその小川を緑濃き或る川のようだと思い、連山はワルドロンの高地に甚だ似寄(によ)っていると思った。道を挟んでいる左右の黒岩はルックアルト山を想いださせた。
「これで精神の三大能力たる記憶、判断、及び想像は遺憾なく活動していたことがわかる。
「更に十五分間も待ったが、誰も来なかった。そこで私は『人が死ぬと、それぞれ自分自身の道を与えられるのかも知れない。全く同じ人間と云うものは世界には二人とはないのであるから、他界に於いては吾々の歩む道は一人一人異うのだろう』と推論せざるを得なかった。
「私は今度は他界から来る誰かに出くわすだろうと思った。が甚だ不思議なことには、私にはそれが何者であっても構わないように思われた。『天の使いか、悪魔か、何者かが来るだろう。早くみたいものだ』と思った。私は生前には教会の信条を信じていなかったが、私はそれよりも優ると信ずる信仰を筆や言葉で証(あか)していたのだと思った。
『しかし私は本当は何も知らない。疑うべき点、または誤った点も無いではなかろう。私は恐ろしい運命に向かって急いでいるのかも知れない。』と考えていると、私のまわりには何とも云えぬ事変が起こった。『恐るる勿れ。汝は救われている。』こうあちらからも此方(こちら)からもハッキリした思想の来るのを聞いたのである。否、私は音声を聞いたのではない。何者をも見たのでもない。唯遠近の諸地点から、何者かが私に関して考え且つ発表しつつある思想をパッと直感的に意識したようであった。
(註)この体験実話によって、人間の霊魂は何々宗派と云うような派閥的な宗門に入らなくとも正しい信仰を持つ者の霊は既に救われていることがわかるのである。(谷口)
「しかしそれが真実であることが、どうして私に解かるだろう。私はその神秘を疑いながら神秘の感じに閉ざされていた。私は懐疑と恐怖とを覚えてみじめな感じに堪えがたくなった。と、その時慈愛と柔和との忘れがたい表情をした一つの顔が見えて来て、私の信仰を強めてくれたのである・・・
「意識も努力もなしに私の両眼はひとりでに見開いた。私は自分の両手と寝床とを認めた――再び肉体に帰ったのであった。
私はそれに気がつくと、驚き且つ失望して、『どうしたことだ。又死ななければならないのか』と叫んだ。そうして非常に衰弱していたにも拘わらず、看護の人たちが休息せよと云うにもかかわらず、私はすぐさま他界の経験を語ったのである」
この叙述者の証言の本当であることは、諸学者の質問に対して彼自身応答した事によっても知る事が出来たのである。すなわち戸口の側にたっていると云われる紳士は、やはり事実上そこに佇んでいたのであり、街道で見たという水溜りも、丁度雨降りであったからやっぱり街道にそのまま残っていた。霊の細い線については叙述者自身或いはこの学説を聞いていたことがあるかも知れないが、彼はそれを信じていなかった。
従って、彼の観たところのものを予備観念の幻影化だと説明することは出来ないのである。
死が<或るもの>の肉体より蝉脱(せんだつ)することであることは、こうして何れの証拠も肯定しているのである。その「或るもの」は純粋に非物質的のものではないが、思考作用の根元として確実に存在しているのである。従って幽霊が実在すると云うことは疑うことが出来ない。嘲笑に会うことをおそれて真実を否定するのは科学者らしくない態度である。ガス体的幽体の存在する以上、所謂「幽霊」も亦存在している筈である。幽霊は決して超自然のものではなく、現に如何にしてもその真実性の疑いがたいような性質の幽霊が各所に出没しているのである。>> (セヴラュー博士著『心霊界の実証』より)
死者の霊と親しき人々の嘆き
「人間死んでも死なぬ」P.103−105)
<<他界よりの最も重大なる禁制であって霊界の筆者から繰り返し繰り返し力説せられる事は、この世に残れる人達が他界へ移り入った人について嘆いてはならないと云うことである。彼らは云う――無用の嘆きは彼らがこの世の人に話すことの出来ない間は、彼らの心を悩ましめる。それは実際、積極的の悪である。
「事実はどうであるかと云うと」と、ヒースロップの霊魂はその妻に書いている。
「誰でも死んだ時、自分が新しい環境にいることに気がつくと、彼らはこの世に遺して来た人たちのことをおのづから思いだすのである。霊魂は自分の状態が幸福であるならば愛する遺族の人達に自分の死を悲しんではならないと言いたく思う。彼等は自分の来た新しい美しい国土の有様を知らせたく思うのである。彼等はしばしば此の世の人に、鮮やかなあの世の幻を見せて彼らを導くことができる。しかし最も彼らが望んでいるのは、彼らの愛が霊界に来てから、以前より如何に深くなり、強くなり浄まったかと云うことを知って貰う事である。」
「さて、それ故に彼らの大いなる愛の絆は彼らを地上へと引き戻すのである。そして彼等はなつかしき家庭に帰る。彼らが最初に悲哀を感ずるのは、自分たちがやって来たことを知らせる事が全く出来ないと云うことである。遺族のものを慰めてやりたいと云う希望もまことに甲斐ない、彼等は悲哀の号哭(ごうこく)を眺めながら如何にしようすべもないのである。彼等は霊力ある誰かを求めて愛と慰めとのやさしい通信を送ろうと企てる。が、何たることだ!遺族のものは大抵はその通信を受け取らない、彼等はただ驚くばかりで信じないのである。」
ジュリアはW・T・ステッド氏の手を借りて、近親の人の死にいたく嘆いて打ち砕かれている親友にこう書いている。――
「私の愛する者よ。希望を失った人のように嘆き悲しんでいられるのはどうしたことです。ではキリストが生命と永世とを持ち来たらして下さったとは唯の甲斐なき言葉でしょうか。あなたの愛していられた私がこんなに確かに今なお生きているのに、貴方はまるで、他界と云うものが存在しないかのように慰めなく侘(わび)しそうな様子をしていらっしゃる。キリストが死と墓場とに打ち勝って下さったのに、そんな筈がないと云う風にはなげかれますなよ。」(After Death より)
<注・コメント>
(1) 死体(屍体)のことを、昔から「なき殻」(なきがら)とも「遺骸」(いがい)とも云います。
親鸞聖人の悟りの心境は(『人生を支配する先祖供養』P.33)
<<親鸞聖人はその臨終に際して、弟子たちに「わしが死んだら遺骸を鴨川へながしてくれ」と言われて、わしの石碑をつくって祀ってくれともお経を読んでくれとも言われなかったと伝えられている。それは親鸞聖人は、遺骸は既に「なき殻」であって、自分自身は決して遺骸の中にはいないと信じていられたからであろう。そして自分を祀って御経を誦げてもらわないでも、既に生前の絶対他力の念仏の功徳にて、浄土に生まれて神通方便を得ているのだから、他の有縁の人々を浄土に救いまいらせこそすれ、自分が、衆生のとなえる念仏で救われようなどとは思わないという意味だと受け取れるのである。>>
(2)偶然や突然の変死とは?
『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.113
<<問――災難によって突然変死する場合があるが、常にこれはあらかじめ決定されていることであるか?時には偶然の死というような事はないか?
ヴェテリニの答え――「< 偶然の死は一つもない。> 死は常に定められた事情の下に、あらかじめ定められた日時に起こる。」(むろん、死期の修正のあることは前掲のとおりである。)
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