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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[5543] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第205回
信徒連合 - 2016年10月28日 (金) 08時49分



<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第205回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




もっと霊界の知識を持ち伝えよう。現象界の出来事は霊界でその雛形が刻々と出来上がりつつあり!




霊界とは、どのようなところか?




霊界の第二圏(『人間死んでも死なぬ』P.121−130)

<<霊界の第二圏は、大体地球上のありさまによく似ている。光線の明るさはその上層部と下層部とにて異なるが、地球上の日光よりやや薄暗い程度だと思えば間違いないであろう。第一圏は懶惰(らんだ)な始末におえない放縦霊(ほうしょうれい)の集合であるから、建物は全然建造されていないが、第二圏には地球上の建物と極めて似寄った建物がたっており、その街区も地球上のそれに極めて似寄っている。例えば、赤煉瓦(あかれんが)の小さい家などが立ち並んでいるのである。(これは英国の霊界に於いてのことである。英国のすぐ上の空間には英国の霊界があり、インドの国のすぐ上の空間にはインドの霊界がある。国境と云うような区画はないが、<霊は類をもって集まる>ので、英国の上の霊界にはおのずから英国人街が出来ている訳である。建物の様式もその住民によって異なるのである。)自分は第二圏の生活がどんなものであるかを、マッケンジー氏が目撃した老朽巡査の生活を描写することによって髣髴(ほうふつ)せしめよう。

 第二圏の中層に低い程度の中産階級の住まうような棟割長屋が建っている。一棟の連続せる数個の家は、すべて同じ形にしつらえられていて殆ど区別しがたい。その一軒に嘗ては生前は巡査をつとめたのであるが――その勤務も年金が欲しさに或る長い期間勤めたのであるが――年金をもらった後は退職して貯めていた小金で玉突き店を買ってその持ち主となった男が、その妻と一緒に生活していた。彼が生前の願いは小金を貯めて出来るだけ安易に、仕事なしに暮らし得ることであった。彼は玉突屋の持ち主であった時には別に悪いこともしなかったが、別に善い事もしなかった。彼の仕事は夜があけると玉突屋の扉を自分の持って来た鍵で開くことと、夕方また扉を閉めて鍵をかけることのほかは永久の安息であった。そして何事もなしに彼は地上の生命を終えたのであった。彼は霊界に来ても自分の欲することをしていた。(霊界の法則は自然に<それ>が不可であると曉(さと)るまで自分の自由に試みることであったからである。)彼は毎日、近隣の人達と用もない雑談に耽(ふけ)ってなすこともなくぶらぶらと生活していた。彼は謂わば自分の望んだとおりの生活をしているのであるから、此処こそ極楽浄土であった。そしてもうこれ以上の生活はないと信じていた。(第二圏はもう苦痛のない世界であるから、この巡査のように自分の住んでいる霊界を本当の天国だと思って、もうそれで満足し切って他の世界への向上を求めない霊魂が多く住んでいる。彼らがこの世界を満足だと思っている間は、十年でも二十年でも百年でも二百年でもこの第二圏以上の世界に進むことは出来ないのである。しかし時として彼らに一層よき好ましき霊界の存在している事を知らして呉れるために、一層上圏の霊界から彼等の親戚故旧の霊魂が訪れて来ることがある。) 

 或る日この老朽巡査が近所の老人を自分の家へ引き入れて他愛もない雑談に耽っていた。するとその門口のところへ一人の牧師のような乞食のような男が訪れて来たのである。老朽巡査が一寸ふり返った。「天国の事について、ちょいとお話させて頂きたいと思いますが」と、その牧師のような男は言った。「天国の話だってよ。ハッハッ------」と老朽巡査は笑い出した。「此処が天国じゃないかねえ、お前さん」と彼は隣の老人に言いかけてから、一寸門口の方へ振り返って、「何にも今日はお余りはねえよ。」とゾンザイな語調で言った。牧師の様な乞食のような男は仕方がないので又歩き出した。二、三町歩いて行くと、或る家の門に寄りかかって何か思いに耽っているような老婦人があった。彼女は、この永久の休息のような世界に、もう飽き飽きして来ているのであった。――何かもっと意義のある生活がありそうなものだ――こう彼女は考えていたが、どうしたら、その意義ある生活が送れるかがわからなかったのである。其処へ丁度この牧師のような男がやって来たので、彼女は喜んで彼を自分の家へ招じて一層高い霊界の話を聞いた。どうかしてそうした上層の霊界にのぼって行きたいものだとの念願と共に、彼女はこの上層からの出迎えの霊と一緒に第三霊界へのぼって行った。彼女はこの単調な無意義な生活に飽き飽きして永い間思い悩んでいたその間に、次第に自分の幽体の穢れがとれて第三霊界へのぼり行くことが出来る程の軽さに自分の体量がなっていたのである。>>



 
虚栄の市(霊界の第二圏)

(『人間死んでも死なぬ』P.125−126)

<<第二圏の下層の一部に虚栄の巷があるのをマ氏は見た。其処にはきらびやかな大きな部屋があった。部屋の中には立派な衣装棚や大姿見が並んでいた。そこへ美々しく着飾った婦人たちが間断なしに入って来て、もと着ていた服を脱げすてると、すぐ又別の美しい服装に着かえていた。身じたくが済むと彼女等は大通りや劇場や音楽会などへ出かけて往った。併しそれは芝居を見るためでもなく音楽を味わうためでもなかった。それは自分の化粧や着付けが如何にもよく似合っていると云う讃め言葉を出偶う人達から受け取りたいためであった。彼女等は大通りで行き遭う人達ごとに「見て下さい、私のこの着付けは好いでしょう?」と言った。誰も「まあ、ようお似合いでござんすこと!」などと言うものはいなかった。ここにも「類をもって集まる」と云う諺が適合するのである。他人の事を公な心で賞める程の人物は、この虚栄の巷には集まって来てはいない。ここには自分のみが讃められたい一方の、同じ罪のものばかりが、重力の物理学的法則に従って集まっているのであった。あちらからも此方(こちら)からも「どうです?この衣裳はよく似合いましょう。」と言って肩を聳やかすものばかりでであった。ほかの言葉は聞こうにも聞くことが出来なかった。

 此処にも自己を制裁するものは鬼ではなく、ただ自己の不徳のみであった。そのうちの一婦人を自分は見たが、彼女は、次第に誰も自分の服装を讃めてくれるもののないこの虚栄の巷の生活に飽き飽きして来た。彼女が大通りを通っていると向こうから瀟洒(しょうしゃ)なネクタイをつけたスタイルの好い男が近づいて来た。この男は靴下の飾りボタンを選り好みするのに半日もかかっていた男であった。その男は彼女の側まで来ると「どうです、今日の僕のこの衣裳は?」と尋ねかけた。「馬鹿、そんなものが何が好い!」こう彼女は怒鳴りつけると、逃げるように走り出した。間もなく彼女の姿は例の化粧部屋にあらわれた。彼女は自分の着けていた衣裳を脱いで、それを引き裂き始めた。「こんなものが何になる?こんなものが何になる?」と彼女は呟いていた。多くの仲間の婦人達がやって来て「この人は一体どうしたと云うんだね。気でも狂ったに違いない」と、口々に罵りながら、彼女を部屋から突き出した。彼女は自分の部屋へ帰ると突俯(つつふ)してさめざめと泣いた。「何と云う無意義な生活を送って来たことだろう。もっと苦しい生活でも好い、もっと、はしたない仕事でも甘んじてしたい。こんな虚栄の生活が何になるか。」かようにして、霊界では自分のしたいことを妨げはしないが、自然に自分の生活の空虚を感じて、次第に向上し得るようになっているのである。>>



他力教の信者(霊界の第二圏)

(『人間死んでも死なぬ』P.126−127)

<<第二圏の中層に一軒の病院のような建物があった。その建物の一室に一人の足の悪い老人が棲んでいた。(名は云わぬが、この老人は生前、宗教界に於いて顕栄の位置を占めていた老人である。)彼は今の住む第二圏が「他力」によって救われてきた天国浄土だと信じているのであった。彼のところへ訪問して来た一人の男に彼はこう云って説教しているのを自分は聞いた。――「わしは自分に何の資格もないのに、この天国浄土へ救われて来たのです。此処へ生まれさせて貰ったのは、自分の力と思ってはなりませぬ。皆、神様のお他力のお蔭でございまするぞ。」>>



各宗派の本部(霊界の第二圏)

(『人間死んでも死なぬ』P.127−128)

<<第二圏の上層部には地上に存在するあらゆる種類の宗派の本部が置かれている。やはり「類をもって集まる」の法則に洩れずに、軒をならべてそれらの教会があるのであって、遠近に散在しているのではない。各教会の参拝者はいちじるしい数にのぼっている。しかしそれは宗教を信じるものが地上の人間よりも多いと云う訳ではないのである。霊界には分教会と云うものが設置されていないので、すべての信者は皆、本部に殺到するのであるから、信者の数が多数らしく思われるのである。

 第三圏以上の霊界に於いては、宗派の区別と云うようなものは宗教的偏見だとして斥けられている。

宗教的偏見あるものは第三圏以上の霊界へのぼることは出来ない。この宗教でなければ救われないなどと云うことは断じてないのである。斯く偏信している間だけが救われないのである。ただ一つの神に対する平等なる信仰が第三圏以上の世界には行きわたっているのである。

 さて、軒をならべた各宗教の本部教会に於いては間断なく説教がおこなわれている。説教はすべて第三圏以上の霊界から教師が降りて来てせられるのである。信者たちは一つの教会の説教のみを聴くことはゆるされない。交替に各宗派の説教をいろいろと聴いているうちに信者達は各宗派の得失について充分理解し、ついに一つの神と云う平等の観念に到達するようになっているのである。>>



第三圏の生活

(『人間死んでも死なぬ』P.131−133)

<<霊界の第三圏の生活は、所謂「常夏の世界」である。我々の如く此の地上に住む人間にとっては、此の霊界が最も麗しく感じられるであろう。そこは美しき花の世界であり、美しき小鳥の世界であり、緑の丘と、澄める小川の世界である。地上に見出されるすべての美しき小鳥や、家畜類はすべてこの第三圏に見出される。小鳥のうちカナリヤが最も数多い。第一圏と地球との中間に<霊界の動物園>があって、一切の動物は普通その地上の生活の後、この動物園に入るのであるが、地上に於いて人間によって愛されていた動物だけは、その飼い主たりしひとの霊魂の愛の力によって人間の霊界に移行するを得るのである。第五圏以上の霊界には動物は住むことを許されない。若し飼い主たりし人の霊魂が向上して第五圏以上に行こうする時は、彼に属する動物は他の飼い主の手にゆずられるか、然らざれば、霊界の動物園に下降せざるを得ないのである。ある人の説によればかかる動物の霊魂は人間の霊界に入りて特殊の修行を積みたがるゆえ、それが因となって、人間に生まれかわるか、或いは一層高等なる動物に生まれかわるものであるとの事であるが、それについては尚何らの科学的な根拠に到着しないのである。

 さて、この美しき第三圏に死後直ちに来るものは大人の霊魂に於いては極めて稀である。大人の霊魂は地上の生命の後、通常第一圏または第二圏に入りて修行の後、初めて第三圏または第四圏に入るを得るのである。罪なき嬰児幼児の霊魂は地上の生命の後、直ちにこの第三圏に移行する(五ヶ月以後にして流産せる胎児の霊魂も第三圏にのぼるを得るのである。)第三圏は一種の美しき幼稚園である。そこに地上に自分の嬰児を残して先立てる如き婦人が、修行の後移行しており、自己の幼児や他の人の幼児が<その世界>にやって来るのを待っているのである。そこで嬰児や幼児は健やかに生長し教育せられる。はじめより霊界に於いて生長せる小児の美わしき心情は、到底地上に於いて、生長せる小児のそれとは比べられない。しかし又地上に生長せる小児も亦それだけ別種の特長をもっているのである。

第三圏の景色の美わしさは前述したが、その明るさは地球上のそれよりもやや優っている。しかしその光線は太陽から来るのではない。物はあらゆる方面から見るも同じ明るさで見られるのである。どこにも陰影は印せられない。物体は遠くより眺むるも小さくは見えない。陰影のない、遠近のない景色が美しかろう筈はないと人間は想像するかも知れない。が、一度この霊界の景色を見たものは、その美しさが地球上のどんな景色も及ばないほどの美しさであることを頷くだろう。塵は一つもつくられない。例えば木の葉が、何らからの都合で散るならば、それは空中で忽ち化学作用によって分解して大気に吸収せられ、それがまた樹木の養分となるのである。又此の世界には雨が降らない。従って、雲などは空に浮かばない。雲の浮かばない空、それは如何にも無趣味に殺風景だと想像せられるかも知れないが、本当は電気のながれが空において間断なく交わって美しき五彩の色に常に変化せしめているのである。>>



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