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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[5747] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第166回
信徒連合 - 2016年11月13日 (日) 09時05分



谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************




大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(6)





  一般に脱臼し易い関節のある子供と母との関係

 お子さんの中には関節が脱臼し易いという子供が往々ありますね。一寸手を引張っただけで肩の関節が脱(ぬ)けるとか、或いは高い処から跳ぶと膝の関節が脱けるとかいうような関節の脱臼し易い子供がでて来るのも、これも皆親の心の影であります。親の心が在るべき所から脱け出したいと思っている。そんな子を持つ親の心は、大抵恩を被(こうむ)った人から、その恩に報いることをしないで、そこから脱け出したいという様な気持を両親のどちらかが起している時に、その子供の関節が脱臼しやすくなるのであります。




  “関節”というものの精神分析的解釈

だいたい関節というものは、2つの要素の結び合う所である。健全な関節は自(ひと)と他(ひと)との結び合いがしっくりいって仲よく、円滑に動くというところを現わしているのでありますが、それが脱け出したいという心になると、その心があらわれて脱臼するということになるのであります。人の心と心とが又衝突するとか、摩擦するとか、自(ひと)と他(ひと)とが交って摩擦したり衝突したり、苛々(いらいら)して憤激して膨(ふく)れる心を起したりすると関節が熱をもつ即ち炎症を起して腫(ふく)れるというようになる。熱は摩擦によって生じ、腫(は)れるのは、ふくれる位不平の心である。感情が興奮して心が痛むと、関節や筋肉が痛むことになる。物質は痛まないで心が痛さを感じるのである。関節リウマチスで痛むというのは人と人との摩擦がある、その痛みが肉体にあらわれたのである。筋肉が痛むのは肉身(肉親)の間がシックリいっていない痛みであります。

 だから仲を好くして心を痛まなくなったならば、それは治ってしまうことになるのです。だから、結核性の関節炎なんかで脚を切断せねばならんというような時でも、自(ひと)と他(ひと)との交りを仲好くするように心を調整すると、それが手術しないで治ってしまうのであります。




  嫂(あによめ)と調和して結核性関節炎が治った実例

 その実例をひとつ申し上げましょう。私が山口の講習会に行きました時に私の講義を聴きに来たお嬢さんが体験談を言われたのです。その人は右の脚の膝の関節が結核性関節炎に罹(かか)ったのです。結核性関節炎というのは、骨が結核菌に侵されてボロボロになり、関節が炎症を起こし腫れ上り、それでもう痛んで痛んで仕方がないというような病気ですがそこの骨を削るんですよ。それで、ボロボロに侵された骨を削り取って、大体治ったんですけれども、また一年ばかりしたら再発して痛み出して、関節が「く」の字になったままそれ以上伸びないで痛んで痛んで仕方がない。それで医者に診て貰ったら、これは、以前の手術に骨の削りようが足らなかったとみえて、黴菌が残っておって、残った結核菌が繁殖して炎症が拡がっていって、一層悪くなっている、と言うのです。

20歳位のお嬢さんでしたが、もうこの状態では余り拡がっとるからそこだけを削り取るというわけにはいかないので、この大腿部のところから片脚を切断しなければならんという診断です。年頃のお嬢さんが脚一本無くなるという訳であります。そういう診断でありましたが、お嬢さんは、片脚を切断するのは嫌だ。それに、前に骨を削った時は腰椎麻酔であったから痛いことはなかったけれども、あの電気鋸(のこぎり)でゴリゴリゴリゴリ骨を削る時の響が地響きのように頭まで響いて来て、何とも言えぬ気持の悪さといったら、もう話にならない。それでも治りきるのならいいけれども、治らないで再発した。そして今度手術したら片脚が無くなる。そんな気持の悪い手術をして更に片脚が無くなるのはいやだ。私はもう死んでも脚を切らないと、そう思っておったというのであります。

 その時に、長府の松永角次郎さんといわれる、誌友相愛会を開いていらっしゃる方のお宅へ誰かがこのお嬢さんを紹介してくれたのでした。(この松永さんは夫婦共非常に熱心で、そこでは随分よく病気が治っていたものです)そしたら、松永先生が、
 「あんた、右の脚だねえ、右は女だがね、女の人とあんたは仲が悪いでしょう。関節というところは、自(ひと)と他(ひと)とも交りが、それが円滑に摩擦なしに回転する所だが、それが円滑に往(ゆ)かないで衝突して炎症を起している。腹立つか恨むかしている。だからねえ、あんた女の人を恨んでいることはないか?」と訊かれたんですが、そのお嬢さんは本当に女の人を恨んでおったのでした。嫂(あによめ)を殺したい位恨んでおったというのであります。だから嫂を殺したい──自(ひと)と他(ひと)との摩擦関係です。だから熱が出る、炎症を起す。それが、相手を殺したい位に恨んでいるんだから、相手を切って棄てんならん位になっている、それが片脚を切断せねばならぬようになって現われているわけなんです。

それを松永先生は指摘せられて、「相手と仲直りをしなければいかん」と、こう言われまして、神想観によって、心の世界で相手と仲直りする方法を教えられたのです。即ち瞑目合掌して目の裡(うち)にその嫂(あによめ)の姿を思い浮かべて、心のうちで相手に和解し、相手に今まで憎んでいたことを 一所懸命のお詫びをし、相手を恕(ゆる)して、更に相手に感謝するように教えられたのです。

 このお嬢さんが教えられた通り実行したとき、その“切断しなければ駄目だ”と言われておった脚の関節の炎症がキレイに癒(なお)って、今まで「く」の字に固定しておった膝が自由に動くようになり、完全にどこも何ともない健康状態に恢復してしまったのであります。




  心の一転によって何故病菌が克服できるか

ところで、この体験は吾々に何を教えるでありましょうか。結核菌というものが結核性関節炎の病原だと、言われていますけれども、そして実際、それを精密検査をすれば結核菌に冒されておったに違いないのであります。患部を削り取って一時治って、また再発した位なんだから本当に結核菌がいてそれが更に増殖したのでしょう。

けれども、結核菌というものは「結果」であって「原因」じゃないのです。自分の心の中に人を恨んだり憎んだり衝突したりする思いがあるのでその人に結核菌が繁殖し易い様になっておったというのであって、結核菌の方は第二次的の原因であるというわけなんであります。

だから結核菌なんて怖ろしいことも何もない。第一次原因たる心の「間違った思い」を無くしてしまったら、結核菌がそんなに侵入してしまっているのでも癒(なお)ってしまうのであります。
 だいたい結核性関節炎というのは、肺臓みたいな、血液によって患部に薬が運ばれてゆくというような場所が冒されているのじゃないのであります。血管がなく薬剤が届きにくい骨が冒されているのであって、その骨を根本的に切除しなければ除きようがない所にいる結核菌でも、心が一変すればどこかへ消滅してしまう。

それは吾々の心の波は骨の中へでも入るからであります。それは恰度、ラジオの電波がビニールやゴムの被覆をしてあるアンテナの中へでも自由に入って放送が受信できるのと同じように、骨の中へでも心の波は入るんですから、心の波動の変化によって骨の中の結核菌でも無毒にしてしまう訳であります。骨の病気は、脊髄カリエスや肋骨カリエスでも物質方面の治療法では、骨の中まで薬が中々滲透(しんとう)しないためになおり難いけれども、和解と感謝の心の波動を注射するのならば、容易にそれが滲透して病菌を消滅または無毒にできてカリエスのような難病でも治るのでありまして、これは理論的に、そうなのでありますが、実際の治験例によっても、その学説の正しさが証明される訳であります。


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