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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6310] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第198回
信徒連合 - 2016年12月30日 (金) 09時07分




谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――


@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』

A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』

★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。

******************



大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(39)





 色々の体験は魂の悟りのため


天使(てんのつかい)また説きたまう。──
肉体は「汝」に非ず、
肉体のことに就(つ)いて思い煩(わずら)うこと勿れ。
思い煩えば恐怖生じ、
恐怖生ずれば恐怖の反影(はんえい)として
肉体の不調和は持続せん。
汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。
「一層高きもの」こそ真の「汝」なり。


昭和46年9月6日、私は北海道の旭川市公会堂で講習会をひらきました。受講生の体験談発表の時間に、旭川市神居3条18丁目に住む白石セキさん(当時67歳、助産婦)が次のような体験を発表されたのであります。もう既に医師から臨終近しと宣告せられていたのが「一層高きもの」を心に一転した時、突如恢復に向った実例であります。白石セキさんは次のように話されました。

皆様、有難うございます。 私は、只今御紹介頂きました神居に居ります白石でございます。私が入信させて頂きましたのは、昭和16年頃、函館に居りまして入信させて頂いたのでございますが、昭和20年の年に強制疎開を受けまして、上士別に疎開してまいりました時、生長の家も上士別にございませんでしたので、すっかり忘れて居りました。その時に、流産の出血が激しく、上士別の岡崎先生(医師)から、22年の12月でございましたが、「お正月元旦早々一つお葬式を出す様だな?」と申されたそうでございます。

「ああ、私はどうせ命がないんでしたら、『甘露の法雨』を忘れて居った!!『甘露の法雨』を聴きながら、喜びの昇天をさせて頂きましょう!」と思いまして、函館から参りました時、荷造りしてまいりましたままに縄がかかっておりました『甘露の法雨』を子供に出して頂きまして、その時、13を頭に5人の子供がおりましたが、その長男の13の子供に『甘露の法雨』を読んでもらいまして、『甘露の法雨』を聴きながら喜びの昇天をさせて頂こう!!とこう思ったのでございます。

その時主人がお燈明(とうみょう)をあげまして、「ああ、どれどれ、俺が読んであげる……」と申しまして、『甘露の法雨』を読んでくれました時に、「ああ申し訳なかった!!こんな素晴しい主人や子供がおりながら、私は、“死ぬ、死ぬ……“と、死ぬことばかり考えておった、申し訳なかった!! 神様、神様御心ならば、私の命をもう暫くこの5人の子供のために地上に置いて頂きたい!!……」としっかりお願いをしたのでございました。

ところが夜が明け、もう危篤の電報が各方面にうたれておりましたが、元旦の朝早々、見るもの聞くものが本当に楽しく、何とも言われない美しい世界に変っておりましたので、『甘露の法雨』によって私は助けられたんだなあと思いました。その時、「ああ、お前は助けられた!!神、汝の願いを聴かれたぞ……」という言葉を3回もお聞きしまして、本当に神様に救われたんだな!! 有難うございます……と心から感謝した次第でございますが、この事は23年に、谷口先生が名寄に御巡釋下さいました時に詳しく御報告申し上げましたので、簡単に略させて頂きます。

それから、いろいろと本当に、旭川に参りましてから、主人を亡くし、息子を亡くし、不幸のどん底に落とされましたが、この『甘露の法雨』をしっかり抱きしめまして、「今に良くなる!
  今に良くなる……生長の家には悪いことは一つもないんだ、私が“人間神の子”の真理をしっかりと把握出来なかったために、こういう不幸が現われたんだ」と思いまして、信仰に、誌友会に一所懸命、愛行を尽しておりましたところが、43年に私の念願が叶えられまして、神居の現在の所に、素晴しい土地と家とが与えられまして、次男がマッサージを開業させて頂いておりますことを厚く御礼申し上げます。

ところが、6月28日でございました。私はお花が好きなものですから、球根を頂いたので、それを植えましょう、と思って、スコップをぐっとさした途端に、2尺以上もあるえごたの木の垣根を通り越しまして、隣の集合煙突が倒れてきまして、その後、頭部に裂傷を起しました。息子と隣の奥さんとが駆け寄ってまいりまして私を運んでくれましたが、その時にお医者さんをと言いましたが、私は「医者なんか必要ない……」と申しましたけれども、とにかく30分以上も経ちましてから、お医者さんが参りまして血圧を測りましたところが、「230もある」と申されまして、ああ、私はいつの間にか幸福……幸せな生活に慣れてしまって、神様を忘れておった! 実相世界を忘れておったんだ! 現象の枠に振り廻されておったんだなあ……ということを思いまして、谷口先生に、“人間神の子”を忘れておったことをお詫び致しましたが、2、3日良いと思うとまた悪くなり、4、5日良いと思うとまた悪くなりしておりましたところが、8月の12日の朝でございます。2時頃でございました。──息子の嫁が、「まだ母さんの部屋に電気がついているから……」と言って入ってまいりまして、「母さん、明日、名古屋からいらしている姉さんを連れて、上士別の富良野のお父さんが札幌方面に行くから、もし練成に行くのでしたら乗せてってもらったら?……」と言いますので、“ああ有難い!! これこそ神の導きだろう……”と感謝致しまして、「1日でもいいから練成に行かせて頂きたい!!」とお願いしまして早速、夜半の2時頃から仕度をしまして、8時に富良野のお父さんが車で参りまして、8時半に出発させて頂きましたが、途中、この『甘露の法雨』をしっかり抱きしめて、拝読致しながら参りましたお蔭で、12時に無事に会館の前に到着させて頂きました。家族の人たちが……「長い間、車ですから」と心配しておりましたので、事務の方にお願いして、「無事着いた、安心あれ」という電報を家族に打ちまして、それから、12日から練成を受けさせて頂き、12日の日は、もう起きておれないほど苦しかったのでございますが、13日の浄心行の時に、「ああ、本当に神を忘れておったんだ!! 神様申し訳ありません。私は家族の者たち、周囲の者たちに心から感謝が足りなかったのだ。幸せに慣れてしまってもうし訳なかった!!……」と心の底から感謝致しまして、あるだけのことを、潜在意識の奥の奥から紙に書きまして……そうして、神様に懺悔と感謝を申し上げたのでございました。

その時、13日の朝でございます。前夜はもう、お布団を敷くのもたいぎであったのが、13日の朝になりましたら、喜び一ぱい感謝一ぱい、本当にもう、こんな嬉しい、楽しい世界があったのだろうか?と思うほど嬉しく楽しくなりまして、それっきり、喜び一ぱい感謝一ぱいでございました。それから笑いの練習の時も、心の底から笑わせて頂き、14日の御先祖供養も、心の底から御供養させて頂き……15日には、この神殿に額突(ぬかづ)き、実相の御軸(おじく)を通しまして実相顕現、教勢の発展、また愛行の実践をお誓い申し上げまして、皆様と共に喜びの心を持って、「光の行進」をさせて頂いた訳でございます。

本当に皆さんが感激一ぱい、涙でもう顔がくちゃくちゃでございました。本当に喜びと感謝で一ぱいでございまして、旭川から快速電車で、平田さん、桜木さんと共に喜んで帰らさせて頂いた訳でございますが、後で聞きましたところが、相愛会の土田会長さん御夫妻、大島先生方が毎朝5時10分からの早朝神想観に、私の神癒祈願をお願いして下さった!!とお聞き致しまして、本当に皆様のお蔭、神様の御愛念によって、御指導によって私が今、言語障害もなく、半身不随もなく、こうして皆様の前で喜びの御報告をさせて頂きますことを心から感謝御礼申し上げまして、愛行実践、伝道に励ませて頂きたいと存じます。谷口先生、有難うございます。


 「**(確認後掲載)、生きる」という警句があります。また「生命(いのち)を得んとするものは却って生命を失い、生命(いのち)を捐(す)つる者は却って生命を得ん」とイエスは言っております。

また金光教祖の「百節の御理解」には「“ままよ”という心にならねばお蔭は得られぬ」と示されております。“現象の生命”に心が捉えられて、「どうしたらこの肉体の病気が治るか」と、右顧左眄、とつおいつ、心がひっかかって自由を失い、暗い気分になって悒鬱(ゆううつ)に沈むとき、病気は、その自由を失った暗い心の反影として一層増悪するのであります。

この白石セキさんの体験談には、この真理がよくあらわれているのであります。「ああ、私はどうせ命がないんでしたら、『甘露の法雨』を忘れておった!! 『甘露の法雨』を聴きながら、喜びの昇天をさせて頂きましょう」と白石セキさんは、この病気を治してもらいたいと思って、肉体の病状に心が引っかかっていたのが、心が神さまの方へ振り向き、その心が、肉体よりも「一層高きもの」に心が転じたのであります。

 「どうせ命がないんでしたら」の「どうせ」が「ままよ」という「脱落身心(だつらくしんじん)」(道元禅師)の心境であり、「身心」をつかまぬ心であり、イエスの「生命(いのち)を捐(す)つる者は却って生命(いのち)を得ん」の心境であります。

 そして白石セキさんには「生命(いのち)がないのだ、だめだ!」というような悲観的な暗い思いがない。「いのちが無い」という医師の宣告を契機として“暗い心”にならないで、聖経『甘露の法雨』の“真理の言葉”を聴いて「喜びの昇天」をしようと、心が“光”の方に振り向いていることであります。

即ち「一層高きもの」に心が振り向いて、暗い恐怖の方へ墜落して行かなったので、その瀕死の状態から、急速に恢復に向ったのであります。こうして良人から聖経『甘露の法雨』を読んで聴かして頂いているうちに、“光”の方に振り向いている「心の窓」から“生”の光が射し込んで来たのであります。というのは聖経『甘露の法雨』には人間は“本来生命”であるから死がないという真理が書かれているからです。そして彼女の心が「喜びの昇天」から、「喜びの生命」乃方へ振り向いたのであります。

しかも、その生命を得る道を、人間の自力の工夫で、「何とかして助かりたい」と色々やってみて惑うのではなく、「神さま、御心ならば……」と神様の方へ、自分の心が全的に回転しているところに、私は注意したいと思うのであります。

そして、自分が「自分の目的」のために“生”を得たいと思うのではなく、愛他的目的のために「この5人の子供のために」御心ならば、この自分を今暫く地上に置いて頂きたいと祈った──そこに、神は愛でありますから、「愛他的目的のために」という願いは神の愛に感応して、「もう既に危篤の電報が各方面に打たれておりましたのに、元旦の朝、早々、見るもの聞くもの本当に楽しく、この世界が何とも言われない美しい世界に変っていた」のであり、その時、どこからともなく、「ああ、お前は助けられた。神、汝の願いをきかれたぞ」という声が3回も聞えて来たというのです。

 その後、主人がなくなり、息子の一人が死んだりして不幸のどん底に落ちたとありますが、主人には主人の運命があり、息子には息子に割当てられた使命があり、老少不定(ろうしょうふじょう)は世の常であり、早く死んだから悪いとか、老いて天寿を完うしたから善いという訳のものではない。『生命の實相』の霊界篇には「幼くして死ぬ者の霊魂は高級霊である。もう幾度も生れ変って、受くべき色々の体験は卒業し、今生(こんじょう)には、僅かまだ卒業し切れない体験が残っているのを、その体験を果たして卒業する期間だけこの世に出現したのだ」という意味の事が書かれているのであります。

幼くして死する子供の中には、「親に真理を知らせる導きをする」という体験をするために、短期間だけにこの世に滞在するという予定に従って、その体験を終ると、その霊魂がこの世を去って行くのであります。

 兎も角、主人の死と、子供の死は、白石セキさんにとって、一つの魂の試練であり、現世的悲しみをいかに解決するかのテストを残して、セキさんの主人と一人の息子は「問題提出」の役目を終って、霊界に旅立って行ったのであります。

 一方、白石セキさんは、一度、危篤まで往(い)った瀕死の重症が、良人が枕頭で、聖経『甘露の法雨』を読誦してくれ、その聖経の中にある真理の光が自分の“心の窓”に射し込んで来て、“死”より“生”に蘇生(読みがえ)った体験から、人生には徹底的に「悪」なるものは存在しない。「悪」と見える現象が現われて来るのは、「善」の実相(神の御業(みわざ))があらわれんがための“催し“であると自覚出来たがために「この『甘露の法雨』をしっかり抱きしめまして、今によくなる! 今によくなる! 生長の家には悪いことは一つもないんだ、私が“人間・神の子≠フ真理をしっかりと把握出来なかったために、こういう不幸が現われたんだ」と反省して、信仰を深める努力をし、誌友
会に、相愛会に、布教に、愛行に、一所懸命つくしておられたうちに、以前から希望であった“家が欲しい”との念願が叶えられて、現在いる場所に、土地と家とが与えられたのであります。

 人は現象的利益が与えられて来ると、その現象的利益の来(きた)る根源を忘れ勝ちになって、現象的枠の内に継起して来る色々の事情や、事件に振り廻され勝ちになるのであります。すると肉体は“心の影”でありますから、もう白石セキさんのような年齢(67歳)にもなると血圧が高くなって危険状態が近づいて来るのであります。併し、白石さんは信仰に励み、聖経を祖先に読誦し供養していられたので、霊界からの導きがあります。それがスコップを土に深く穿(うが)ち入れようとした瞬間、集合煙突が倒れかかって自分の後頭部を烈(はげ)しく打って裂傷を負うというような出来事として現われて来たのであります。若(も)しそのような事件が起っていなかったならば、白石さんは自分の血圧が、健康の危険信号である「230」もあることに気がついて、自分が“人間・神の子”の真理を忘れかかっていたことに気がつき、反省が出来なかったのであります。その反省から、やがて札幌で催されている生長の家の練成会に参加する機会に恵まれることになり、230もある高血圧を知らずに生活していたら脳出血でも起して中風になっていたかも知れないのに、そのような不幸もなく、半身不随にもならず、言語障害も起さずに、健康に毎日を過すことが出来るようになったと感謝せられた訳であります。



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