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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[6333] <再掲示> インターネット道場―― 「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか) 第254回
信徒連合 - 2017年01月01日 (日) 09時04分



<再掲示> 


インターネット道場―― 


「正統・生長の家」と「マサノブ教」との比較(どこがどう違うか)


 第254回




マサノブ君は、「生長の家ってどんな教え?」という本を書いています。これを読んでみますと、「マサノブ教ってどんな教え?」というタイトルが正確であります。開祖・谷口雅春先生の『御教え』を換骨奪胎して、マサノブ君の個人的思想、―――サヨク唯物現象論に基づく環境問題が中心のもの、―――が「生長の家」の教えとして書かれているのであります。 最も重要な開祖・谷口雅春先生の大悟徹底(お悟り)や「生命的国家論」や真理の証し「体験談」、霊と霊界に関する事柄については全く書かれてはいないのであります。

「生長の家」の本当の『御教え』を知りたい人や真剣な求道を志す人たちにはマサノブ君の「今の教え」や「生長の家ってどんな教え?」は誤ったメッセージを送ることになっています。

また、本部公式サイトのインターネット講師による「生長の家」の普及宣伝を目的とする「インターネット・ポーサルサイト」では、マサノブ君は、全インターネット講師に『このブログは「生長の家」の真理普及のために開設しましたが、内容や発言は、すべて私本人の責任において書いています。 従って、私は「生長の家」を代表する者でもありませんし、私の発言が「生長の家」の見解ではありませんので、ご了承ください。』という一文を必ず掲載させております。誠に“奇々怪々”な文章であります。その結果として、本部公式サイトでありながら、殆んどのインターネット講師の真理普及のためのインターネット講座が、個人的な“私生活日記”の報告となってしまっています。

インターネットは全世界に公開されているものです。だから、開祖・谷口雅春先生が説かれた「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えしなければならないのでありますが、マサノブ君はその責任を放下してしまっているのであります。

そこで、本当の霊的真理を求めておられる御縁ある未信徒の人たちに正しい「生長の家」の『御教え』を正しくお伝えする為に、開祖・谷口雅春先生の『御教え』の根幹である部分を、何回でも何回でも繰り返して掲載して行く必要があります。この様な目的を以って、この「インタイーネット道場」を最初から再び<再掲示>させて頂きます。



******************




西田哲学との比較に於ける人間論 <その一>



『人間死んでも死なぬ』P.328−345

<<マグナッセンの霊界通信に於いては「人間は神より放射される光」であると書かれている。この「神より放射されたる光」なる人間、私の生命の實相哲学に於いて、「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」とは果たして如何なるものであろうか。此処に此の原稿を書いている谷口、万年筆を握っている肉体なる谷口、これは果たして、生命の實相哲学において「人は久遠不滅の存在である」と云う場合の「人」であろうか。人間の本質を茲(ここ)で、も少し考えて見たい。

明らかに此の肉体なる谷口なる存在は滅ぶべきものである。それはmortalである。Immortalではない。否一層精(くわ)しく云うならば、常に滅びつつあるものである。肉体は例えば、燃えつつあるガスの焔(ほのお)の形の如きものである。生活現象の必須条件として肉体に体温が発生する事実と、呼吸作用と称する酸素交代の現象と、常に新しきガスを供給するが如く新しき養分を送らなければ消耗して燃える力がなくなる事実とは、ガスの焔の譬(たとえ)が、人間の生命現象についてもっとも適切なる比喩であることを表わしている。

ガスジェットから燃え出でるガスの焔の形は、今も、一分間前も十分間前も同一の形状をして燃えているから、今も一分間前も同じガスの焔であると見えるかも知れないが、実は今燃えつつある焔は一分間前に燃えていたガスとは別のガスであるのである。従って今燃えている焔は一分間前の焔とは別の焔である。

 別のガスが今燃えていながら、一分間前と同じと思われる形状をしている。そこで観察者は間違えて同じガスの焔が其処にあると云う。同じように、別の肉体が今燃えていながら、(即ち別の肉体が呼吸していながら)、一分間前と同じと思われる形状をしている。そこで観察者は間違えて同じ肉体が其処にあると云う。

併し事実は全然異なる肉体が、瞬時にして前のものは滅び行きて時々刻々別なる所の肉体が其処にあるのである。斯かる肉体を「久遠不滅の人間」と観ずるのは明らかに間違いである。だから谷口哲学では“肉体は人間ではない”と云うのである。

 「肉体」は斯くの如く人間ではない。「これが人間だ」と捉えたる「肉体」は、その瞬間もえてしまって別のものであるのである。斯くの如く吾々は“人間そのもの”を捉えることが出来ない。捉えたる瞬間より、人間そのものは捉うる手の指の股(また)からすべり落ちて捉えることが出来ないのである。

 弾丸が飛来して肉体を貫く。併し人間“そのもの”は肉体ではないから、肉体を貫いても人間“そのもの”は貫かれはしないのである。貫かれたる瞬間の肉体は、次の瞬間にはもう別のものに変じている。それは燃ゆるガスの焔を棒で貫いたのと同じことである。貫かれた時、焔の形は変ずる。併し、形は変じても変じなくとも、焔は常に別のガスの燃ゆる相であって元の同じ焔ではない。それと同じく、肉体は弾丸に粉砕されても、粉砕されなくとも、常にそれ自身粉砕されつつあるものである。

 常にそれ自身粉砕されつつあるもの、一瞬間前の相を、次の瞬間には止めないもの――此れが肉体である。捉えんとして捉うること能わざるもの、捉えんとする瞬間に別の相に変ずるもの――これが肉体である。此の無常なるものが肉体である。無常なものが肉体であると云う言葉に吾々は誤魔化されて、「無常なるもの」と云う何物かが其処に“ある”と考えてはならぬ。

「無常なるもの」とは「存在しないもの」の別語である。“それ”が瞬時も、その現れている儘の相でいられないものであると云うことは、其処に、“その現れているもの”は<無い>と云うことを意味する。谷口哲学ではこの事を「現象本来無し」又は一層簡単に「現象無し」と云う。また続いて、「肉体無し」とも云う。

『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。其処にその“現れているもの”は無いということである。現れているものは無いけれども、“現れていないもの”が<ある>のである。

 肉体は現れて見える。肉体は現象であり、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。現れて見える肉体は無いけれども人間“そのもの”は無いのではない。人間“そのもの”は厳然として実在する。併し、人間“そのもの”は五官で見る訳には行かないから狙撃することも出来ねば、爆撃粉砕することも出来ぬ。却って狙撃し、爆撃し、粉砕する事が出来るのは本来無いところの肉体の方である。

肉体は“本来無いもの”であるが故に、狙撃し、爆撃し、粉砕し、これを「無」にまで減少することが出来るのである。“本来無いもの”は本来ないものであるが故に「無」にまで還元する。

「無」のみが「無」にまで還元する。“本来無いもの”のみが無くなる。“ある”ところの人間は本来“ある”限り、決して「無」にまで変化し得ぬ。

“本当の人間”――“人間そのもの”――は本来あるが故に「無」とは成り得ない、即ち“死なぬ”。“絶対死なぬ”。人間“そのもの”は絶対死なぬ、人間“そのもの”は久遠不滅の存在である。


*** 私の全集『生命の實相』を読んで病気が治ったという否定すべからざる事実が続々起こったり、戦場に於いて生死を超越して奮戦し得た実例を数多(あまた)生じたる理由は、それが「“絶対死なぬ”人間“そのもの”」なる哲学を感情的に移入する誰にでも理解され易い文章で詳解し、その哲学を実際生活上に生活し得るように誘導したからである。

生長の家に哲学が無いという人は、実はその人は、私の全集『生命の實相』を読んでいないからである。真理を感情的に移入する文章を芸術であると観るならば、全集の『生命の實相』は私の文章芸術であるが、哲学そのものは難解なる哲学用語の外にあることをしらなければならない。

私は哲学を難解なる術語から解放したのである。哲学“する”とは難解なる術語を使うと云う意味ではない。真理を如実に把握して生きると云う意味である。表現された真理をそのまま読者が生活に生きるように押し出す迫力があるのが哲学である。哲学は哲学“せしむる”力を持たねばならぬ。併し多少たりとも哲学的術語を持たなければ「生長の家には哲学がない」と言いたがる人のために本稿は幾分か在来よりも哲学的様相を備えて記述したのである。***


 斯くの如く、肉体は瞬々刹那々々に変滅して痕跡をとどめない。前なるは既に無いのである。既に無いものは、初めから無いのである。一瞬間前の肉体と、今の肉体とは全然別物である。その意味に於いて、肉体は時間的にも非連続のものである。一瞬一瞬非連続のものがズッと連続して、一継続の存在であるかの如く、五官に感じられるのは、映画の画面と等しく五官の錯覚によるのである。

 映画の画面は、一瞬一瞬非連続の一枚一枚の写真が継続的に同一平面に投影せられるが故に、非連続なるものが連続せるが如く錯覚され、個々別々なるフィルムのコマの絵が一連続の如く錯覚されるのである。映画が錯覚の応用であるが如く、人間の肉体生活も錯覚の応用である。(『維摩経』方便品第二)

瞬間瞬間に変滅するところの――変滅するが故に本来<無い>ところの――肉体を<有>の連続と思わせているところのものは錯覚である。すべての現象的にあるが如く現れているところのものに、<我>と称すべき常恒常有の連続体は無いのである。(諸法無我)従ってこの肉体が一連続常恒常有の存在だと思われていることが錯覚であるが如く、此の「我」と思えているところの意識本質も唯(ただ)かく現れれているだけであって本来無いのだということを知らねばならぬ。

 <肉体>もなく<自我>もないのである。では全てのものは<ない>のであるか。然り、吾々の五官なく、「我」と感ずる意識もないのである。(『般若心経』。無眼耳鼻舌身意。)「我」という意識も本来ないものであって因縁所生のものであると云うことは大脳と云う意識所現の「縁」を叩き壊せば消えるので分かる。斯く肉体なく、自我意識もなく、それらが悉く妄覚であり無常であると云うならば何が不滅であるか。

そのすべてのものが無常であると云う原理“のみ”が常であり、實相であるか。仏教の一派ではこの無常の原理のみが實相であり、無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来た。無常を悟ることが實相を悟り真理を悟ることであると説いて来たが故に、小乗仏教では無常に身をゆだねること、灰身滅智、無為にして世を終ることのみが、真理を生き實相をいきるのだと云うがように間違う者が出来てきたのである。仏教発祥地及び経由地の亡国はそのためかとおもわれる。

 瞬々刹那々々に消滅する肉体――本来無い肉体――が連続して五官面に投影されて「我」なる意識の一連続ができあがる。連続せざるものが連続せるが如く現れて「我」として感じられるのである。昨日腹立ち昂奮(こうふん)したところの「我」も、今、家族の不幸に打ちひしがれて悲しみ打ち倒れているところの「我」も、一夜の睡眠と云う意識の連続の中断をその間にさし夾(はさ)みながら、依然として同じき自分であると感じられる。

昨日、病床で呻吟(しんぎん)していたところの「我」も、今日戦場で傷つき倒れている「我」も、共に同じき一つの「我」であると感じられる。この立場に立つ限りに於いて、「我」とは、腹立ち、喜び、病み、且つ傷つき倒れるものであると感じられる。

かかる観点に立つとき、「我」と云うものはまことにも常苦常悲に満たされているものと云わなければならない。悲しみに泣き濡れたる人々よ、貴方たちが此の常苦常悲の人生を超越するために、私は「人間は久遠不滅、傷つき倒れないものである」との真理を説くであろう。


 私は、再びガス栓(ジェット)の喩(たとえ)に立ち帰る。一個のガス・ジェットから噴出するガス火焔の形状は、ガス“そのもの”の形ではない。ガスそのものは死せるものであって、一定の形はない。また一定の意識もない。しかもガス栓(ジェット)から迸(ほとばし)り出るガス火焔の形は一定である。昨夜、そのガス栓を開いてマッチで点火したときも、今日そのガス栓を開いてマッチで点火したときも“同一の形”で焔は燃える――だから吾らはこれを認めて“同一の焔”であるとかんがえる。(これが睡眠で中断された意識が、目が覚めて意識が回復されたときに同自性の意識がそこに起こり、昨日の自己も今日の自己も“同一の自己”であると感じられる事実に当る。)

併し、これは決して“同一の火焔”ではなく“同一の自己”でもない。先に説明した如く、同一の火焔はないのであり、“同一の自己”もそこには<ない>のである。本来非連続のものが同一空間面に同一の様式で連続し、又は継起するために、“同一の火焔”または“同一の自己”がそこに<ある>と錯覚するにすぎないのである。

そこで生命の實相哲学では「現象我は無い」と云う。現象我とは大脳の一現象として現れている「我」なるものであるが、それが本来無い証拠には大脳を破壊すれば「我」なる意識は消滅する。

三たびガス栓の比喩に立ち帰る。今日ガス栓に燃えている焔は、昨夜ガス栓で燃えていた焔と同一の形状をしていて、吾々は同じ焔だと云う実感を喚び起こすのは何故であるか?それはガス迸出口(へいしゅつこう)の構造による。ガス迸出口(へいしゅつこう)が一定の形をしているが故に、そこで燃えるガス火焔が一定の形状をしていて、同事性の錯覚を起さしめるのである。ガス迸出口の一定の形状こそ、そのガス火焔をして一定の個性をもって燃焼を連続せしむる原因を構成するものであったのである。

 ここに考うべきことは、それでは何故、ガス迸出口が一定の形状をしているかと云うことである。それは云うまでもなく、設計者の心の中に描かれたる理(ことわり)の念による。理を立て、目的を定め、それに相応(かな)うような形状が心に念の姿をもって描かれて、やがてその理念が現実のガス迸出口として表現されたのである。だからガス迸出口を斯くの如き形状で現れしめている力は、ガス迸出口の鋳物(いもの)の力ではなく、ガス迸出口を設計したところの設計者の心の中の理念である。

ガスは瞬々刻々交代しつつ、別の火焔が燃えているのであるが、その別の火焔が同一の形状を備えていて、昨日の火焔も一貫してその同時性(*)を認めしむべく吾々に迫ってくる力は、その設計者の心の中に描かれたる理念である。その理念はそのガス迸出口の構造を通じて、昨日も、今日も、明日も、継続して作用(はたら)いているが故に、ガス火焔の物質的内容は全然別のガスでありながら、常に同一個性をもって燃えつづけて、同事性(おなじものであること)を吾々に認めしめようと迫るのである。

さればガス火焔の“同事性”は、その形状の類似又は同一にあるのではなく、その物質内容の類似又は同一にあるのではなく、斯くならしめているところの設計者の理念の同自性(おなじじぶんであること)によることが判るのである。(*identificationの意。事物の同事を現すときに同事性と書き、人格の同事を現すときは同自性と書いた。)

 そこで前述の比喩を転じて、人間の同自性の自覚に引き戻して考えて見る。既に説明せるが如く肉体は刻々変滅して決して永続して同自性なきものである。更に「我」の意識も刻々変化交代して、決して永続せる同自性のなきものである。従って此の肉体及び大脳意識の「我」が同一自己として感ぜられるのは錯覚である。

而(しか)もこの現在の「我」を同一自己として感ぜざるを得ないのは何故であろうか。若(も)し自我の同自性の自覚が錯覚であるとするならば、昨日の自己の行為に対して、今日の自己は行為の継続も責任もとることが出来なくなるであろう。而も斯くの如きことは吾らの生活をも不可能ならしむるものである。吾等は吾等の自己を昨日も今日も「同自」であると認めんとするところの切なる内部的要請を感ぜざるを得ないし、昨日の行為に対して今日の自分が責任を持とうとする切なる内部的要請を感ずるのである。これは如何なる訳であろうか。

それは、吾等のガス(肉体)と火焔(意識現象)の内容は異なるけれども、設計者の同一理念が今も作用しているが故に、同一のガス火焔であると認めしめようとして迫るが如く、「人間」も肉体と意識現象との内容は瞬々刻々変滅して行き、大脳の破壊によって異常なる変滅を来たすけれども、その「人間」を<同一の人間>としてその<連続的同自性>を認めずにはいられないのは、斯く人間を現しめているところの<設計者の理念>が同一理念であるが故に、昨と今と、異なる物質内容と意識内容とを異にしつつ<同一の人間>であるとの自覚を生ずるのである。

即ち<同一の人間>であると云うことは肉体の不変によるのではなく、内容の理念の同自によるのである。だから人間とは肉体には非ずして内容たる理念そのものである。

茲に同自性の連続として感じられるところの「人間」“なるもの”は、実は<肉体の同自性の連続>ではなく、また「我」なる<大脳意識の同自性の連続>ではなく、<設計者の理念の同自性>による「人間」なる一つのものとしての自覚であることが明瞭になったと思う。そこで我等に「同自」なるものとして自覚せしめている<本当の人間>なるものは肉体ではなく、また軽々しく普通人が「我」と漠然と称しているところの第一人称者でもなく、実はその奥に横たわるところの設計者の理念そのものが茲(ここ)に生きていることを知るのである。

端的に云えば肉体は人間ではない。心(大脳の作用の)も人間ではない。<理念が人間なのである。>設計者によって構想されたる「人間」なる理念が人間なのである。だから、ガス火焔は消える、ガスの装置も錆びて使えなくなる。併し、そのガス装置の設計者の理念は消滅し得ない如く、人間の肉体は腐蝕し、傷つき、死するであろうし、その大脳意識は消えるであろうが、「人間」“そのもの”は、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのである。

一個のガス装置が錆びて使えなくなったら、設計者の設計(理念)が廃棄せられない限り、同じ型のガス装置が適当な材料を求めて製作せられて、同じような型のガス火焔が燃えるであろう。その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、“幾度でも”地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、そこに<現象的な人間>として姿を現し出(い)でるのである。そして斯くして出生する<現象的な人間>は<本当の人間(理念の人間)のただの投影(かげ)に過ぎないのである。

 私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。ここに見逃すべからざる二つのことがある。
(1)人間は設計者に関係していること。
(2)「人間」の本質又は<本当にある>人間は理念であるが、その理念とは類型的概念ではないと云うことである。
 「人間“なるもの”」と云う共通類型的な概念ではなく、ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの--------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、決して類型はないのである。

設計者を仮に神と云う。神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。神は無限創造である。神は無相にして無限相を内に包蔵する。類型の重複を造り出す必要は決してないのである。「人間」には類型は一人もないのであって、悉く個性を備えている。類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おう)われて開顕していないに過ぎないのである。それは柿の嫰葉(わかば)と大豆の嫰葉(わかば)とが互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないにすぎないのである。

「理念」には類型はなく、悉く個性的である。人間も赤ん坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて別個の斬然たる個性を発揮する。民族もその未発達期に於いて類型的な性格が多いが、より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。

 人間は「理念」であるが故に、常に死滅することはない。機縁にふれて“より”一層その「理念」内容を完全に表現し、機縁に触れて病み且つ傷つけるが如く現れる。釈迦は仏性に滅、不滅なきこと月の性、固(もと)より出没なきが如しと言っている。(『涅槃経』月喩品)

 斯くて人間は今、物質に非ずして物質の様態を表現し、肉体に非ずして肉体の様態を示現し、仮に「肉体」を我と考え違いし、大脳意識の滅落を我の死と思い違えて悲しむのであるが、<本当の人間>――“本当にある人間”は決して死することなきものである。

長押(なげし)の釘に掛けたる衣服は釘が抜け落つると同時に吾々の視界から没し去るが、衣服そのものは決して滅したのではないのである。(ベルグソン『創造的進化』)吾々は肉体の死を悲しむには当らないのである。


吾々人間は“設計者”とその“理念”との関係に在る。設計者は神であり、吾等はその被造物である。併し“設計者”は設計者の“理念”の中に生きるのである。“設計者”に何の“理念”もなければ、設計は内容空虚なるものとなる。設計者が設計者である為には必ず理念がなければならない。神(ミコト)は理念(コトバ)となって展開し、理念は肉体となって表現せざるを得ないのである。(谷口雅春著『甘露の法雨』)

 「肉体の我」は前述の如く本来存在せず、茲(ここ)に肉体の様相を展開しつつ“ある”ものは、実は設計者の理念である。設計者なる神の理念が茲(ここ)にあるのであり、そして神はその理念の中に生きているのである。されば「肉体の我」は<無いもの>であるに拘わらず、肉体の現れているところの“此処に”、吾々は設計者を体験し、永遠者を体験し、神を体験し、此の神性こそ自分自身であると自覚するのである。

 西田哲学の廻りくどい表現をもってすれば、「今、此処で手を挙げ足を動かすこの個人的な私が、そういうものに直面すると云うのである。併しながら、他面、単にわたしの知覚が、或いは単に私の身体が永遠なるものと続いていると云うのでもない。身体を有ったこの私が、考え且つ行なう此の身体が、そういうものに接すると云うのである」(瀧澤克己著『西田哲学の根本問題』P.6)

(*以下、便宜上、西田哲学は瀧澤克己氏の『西田哲学の根本問題』に拠(よ)る。西田哲学と谷口哲学との相異点は拙著『新生の書』の最後の章に詳しく書いたが、生命の實相哲学に酷似している点も多いから西田哲学と比較して説明すれば、近代の思想家に解し易いから、そうして欲しいと云われるので瀧澤氏の著書を利用することにしたのである。)

 併し、西田哲学では「神は絶対に摑(つか)むことの出来ないものである」と言う。また「私の最も厳粛なる良心、最も真摯なる行為によってすら摑むことの出来ないものである」「神と私の間には超えることの出来ない深淵がある」と言う。(同書P.6−7)

若し私が前述せるが如く「私」なるものの本質が理念(コトバ)であり、理念の中に神が生きているものであり、理念がなければ神そのものが無内容になってしまうものであるならば、神は直ちに「私」によって摑まるべきものであり、私が生きることは神が生きることであり、私が働くことは神が茲に働いていることである。<遍在者が此処の一点で生き、久遠のものが今の一点で働いているのである>。

今ここにこのまま私は<久遠>を生き、<遍在>を生きているのである。私の生命の實相哲学が西田哲学に一致するか一致しないかは、観る人によって意見が異なるであろうが、両哲学の表現法は茲に云う「私」なる文字によって全然異なったものである。

「神は私によって永遠に摑まれないものである」と西田哲学は云い、「神は“私”によって容易(たやす)く摑まれるものである」と谷口の實相哲学は云う。

 この場合、西田哲学は「私」なるものを、肉体の大脳意識であることを意味し、“良心”なる語さえも大脳意識の一種高等なる作用を指しているに過ぎない。西田氏の云う「私」なるものは一旦肉体の存在を否定してから後の「私」ではなく、「物」であるところの「肉体の我」をその儘(まま)アリと肯定しての「私」である。そう云う「物である私」によって「霊なる神」を摑むことは絶対に不可能である。この点に於いて西田哲学は正しいと云わねばならない。

 之に反して、谷口の實相哲学では、前述せる如く「肉体の私なるものは無い」と「物である私」の存在を否定してしまったのである。このことを『生命の實相』では「我の置換(おきかえ)」と云っている。「我(われ)」なるものを置き換えてしまって然る後には、神は私によって容易(たやす)く摑まるべきものである。私は物的存在ではなく理念であり、理念こそ人間であり私であり、神は理念なしにはそれ自身無内容となり生きられないものであるが故に、神は理念によって生き、神の理念は私の内に生き、私は神の内に生き、神は私によって容易(たやす)く摑まるべきものである。

否、語調を強めて云えば、<神性こそ私である>。私が神性である。神と理念と人は三位(さんみ)にして一体である。神を私が摑むとか摑まれるとか云うけれども、「摑む」と云う言葉は、一旦離れているものが合一して一つになる言葉であるから、本当の意味に於いては正しくない。

人間は神の理念であり、神は理念なしには無内容となるが故に、神は人間に生き人間は神に生き、神と人間とは一体であること、猶(なお)、光源と光線との関係の如きものである。光源のなき光線は考えられないし、光線のなき光源は考えられないのである。(谷口雅春著『甘露の法雨』)






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