| [6334] <再掲載> インターネット道場・「生長の家」信仰体験談の重要性と感激的体験談の数々 第200回 |
- 信徒連合 - 2017年01月01日 (日) 09時09分
谷口雅春先生の体験談に関する懇切なる説明――
@ 『 生長の家には体験談というものがありまして、誌友たちが御自分で、私の書いた『生命の實相』をお読みになりまして真諦を握られた結果、法爾自然(ほうにじねん)に実際生活に現われて来たところを御発表になるのでありまして、・・・『生命の實相』を読んでも必ずしも全部の人の病気が治っている訳ではありません。治らないような例外もあります。然し、それでも実際無数の多くの病人の治った体験談がある以上『生命の實相』を読んで病気が治ると云うことは、例外があって綿や埃が空中に舞い上がることが在っても『物体の落下』を原則として肯定しなければならないと同じように肯定しなければならないのです。読者のうちにはお蔭を受けて感謝の心は有(も)っているが、その体験談を発表することを何かつまらないことようにご遠慮なさる人があるかも知れませぬが、体験記録は人生という実験室に於いて真諦(しんたい)、即ち本当の真理を握ったら、世諦(せたい)がこんなに成就したと云う体験を蒐集し積上げて整理して行くことによって、こんな心を持てば斯うなると云う科学的に重大なる真理を立証する事実を寄与して下さるわけであります。酸素と水素を結合させたら水になったと云う体験記録の発表も尊いことでありますならば、人間というものに生命の實相の原理を加えたら斯う云う結果を得たと云う体験記録の発表は尚々重要なことであります。』
A 『 宗教が科学に近づく道は体験記録の蒐集であります。 心に神の無限供給をハッキリ自覚したら自然法爾に自分の行ないも整うてき、人からも好感を受けて、それが形の世界に無限供給として現われてくるということが皆さんの数々の体験によって実証せられまして、それが体系づけられましたなら、それは一つの科学だということになるのであります。科学というものは何も必ずしも目に見えるもの、物質だけの実験による体験記録でなければならぬということはないのであります。目に見えない材料、心の材料というものも、その体験をずっと重ねてゆきまして、それを一貫した法則があるということが発見されましたならば、それは精神科学の法則だということになります。この精神科学の法則というのを、生長の家では「心の法則」とこう言っているのであります。これを、宗教的用語で言いますならば「三界は唯心の所現」という釈迦の言葉や「汝の信仰なんじを癒やせり」というようなキリストの言葉となって表現されるのであります。キリストが「汝の信仰なんじを癒やせり」と言っておられるのは、キリストが縁となって病人の信仰が喚起されて、その信仰のカで病気が治ったとこう言っておられますのですが、「病気」というものは、必ずしも肉体だけの病気ではないのであります。』
★★ 信徒の信仰体験談を無視して取り上げないマサノブ君は「総裁」と言う名に値しない者であります。
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大聖師御講義『続々甘露の法雨』より(41)
神の法則のみ真に一切を支配す。 物質の法則は汝を支配すること能(あた)わず、 罪の法則は汝を支配すること能(あた)わず、 迷いの法則は亦(また)汝を支配すること能(あた)わず。
されば汝らは金剛不壊の実相身にして、 物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、 汝を害すること能(あた)わず。 かかる物質が汝を冒(おか)したりなどと考(かんが)うることを止めよ。 かかる罪が自分に報いられたりと思うことを止めよ。 かかる迷いがこの病いの原因なりと考うることを止めよ。 病い本来無ければ、 病いの原因も本来無し。 病いも無く、罪も無く、迷いも無く、死も亦(また)無しと知れば 何(いずれ)の処にか恐怖存在せん。
この聖経の一節は、生長の家の実相哲学──即ち“唯神実相論”を端的に縮約して表現しているのであります。
“唯神実相論”とは、唯、神のみが実在する唯一の力であり、唯一の創造者であり、法則の創造(つく)り主であり、法則の支配者であり、神の法則が唯一最強の法則であり、その他の法則は、現象界に於ける第二次的な副次的な、仮りそめの法則であり、人間が仮りにみとめて造った法則でありますから、それらは、仮りの世界に於いて現象界を支配しているのでありますけれども、“神の法則”が発動するとき、人間が仮り初(そ)めにつくったところの、冷たい温度に触れれば風邪を引くとか、肺炎にかかるとかいう“物質の法則”や人間には罪があるから、罪の報いとして病気に罹らねばならぬとかいう“罪の法則”や、その他いろいろ、悪業流転の法則とか、悪遺伝の法則とかいうが如き“迷いの法則”は、それが適用せられなくなってしまうのであります。
だからこの一節には「さらば汝は金剛不壊の実相身にして物質的寒冷も、暑熱も、気候風土も、黴菌も、汝を害すること能(あた)わず」と示されているのであります。
昭和46年9月15日、北海道札幌の中島スポーツセンターで生長の家の講習会がありました時に、同市菊水上町36の長見ハツエさんが次のような体験談を発表せられました。
皆さん、有難うございます。私が、「生長の家」に触れさせて頂きましたのは昭和30年の年でした。その頃、私は病気で寝たり起きたりしておりました。そうしましたら丁度、お隣におられました奥さんが生長の家の熱心な方で、その方が「白鳩」誌、『生命の實相』第1巻、第2巻と持ってまいりまして、「この本は、本当に素晴らしい本ですからどうぞお読みになって下さい」そう言われまして、いろいろお話をして頂きまして、その奥さんがお帰りになりました。──その時私は、そんな本や、お話を聞いて病気などよくなるものか!と思いまして、一向にその本に目を通さないで、そのまま棚の上に上げてしまいました。
そうしまして、お隣の奥さんがちょいちょいと私のところに見えられましたけれども、そのお話は一向に耳に通さなかったのです。そうしましたらある日、私もだんだん病気が重くなりまして寝たっきりになりましたんです。そうしましたらある日のこと、私が寝ておりますと、こんな夢を見たのです。私の後を、「おーい!おーい……」と叫ぶ人がいるんです。それで、いったい私を呼ぶのは誰だろう?と思いまして、その人がだんだん近付いて来るのを待っていました。そうしましたところが、よくよくその人の顔を見ましたら、口は耳まで裂けているんです。目は何とも言われない大きな目をして私を睨(にら)んでいるんです。私はもう吃驚しまして、“ああ大変だ!あの人に掴(つか)まったら私はもうこれで最後だわ”とこう思いまして一目散で私は逃げようとしたのです。だけど足が痺れたようになって、そこからどうしても動くことが出来ないのです。その時に私が初めて口にしたのは「神様、助けて下さい!」そう思わず口にしたんです。
そうしましたところが、私の足もとをすうーっと救って下さった人があったのです。私は、“ああよかった!これで私は助けられたのだわ”と思いまして、恐々(こわごわ)とその人の顔を見ました。そうしましたら真白い白髪の御爺さんでした。その御爺さんが口の中で一所懸命になって呪文を唱えているのです。そして呪文を唱えていたかと思ったら、私の目の前に、「エィ!……」と気合と共に突き出したのが、青い本であったのです。それで私、その気合で吃驚しまして目が醒めました。
そうして休んでいて、どう考えても……あの青い本は、たしかにお隣の奥さんがお持ちになって「読んで下さい」って言われた本だけど……と思いまして私が飛び起きまして、そして、その本に目を通しましたところが、本当に素晴らしいことばっかり書いてあったのです。それで私は、無我夢中でその本を読むようになりまして、また『生命の實相』も一所懸命読みました。そしてお話を聞くようになりまして、私は完全に病気から立ち上がったのです。
夢というものは、自分の潜在意識の中にある想念や感情を象徴的に具体的な姿をもって見せてくれるものであります。以上の長見ハツエさんが夢で見たところの「口は耳まで裂け、目は何とも言われない大きな目をして睨(にら)んでいる」──そのような恐ろしい形相をした悪魔のような者に追っかけられていて、一目散に逃げようとしたけれども足が痺れたようになって動くことが出来ないで、もう殆んど捉まりそうになったという光景は、「こうすれば、こういう病気に罹る」というような唯物論的な“病理学の法則”や、「こんな罪を過去に犯した者は、こういう罰を受けなければならないのだ」というような“罪業循環の法則(因果はめぐるの法則)が夢の中で擬人化してあらわれてきたものであります。
いよいよ、それらの“迷いの法則”につかまって報いを受けなければならないという瞬間長見ハツエさんは「神様、助けて下さい」と、“神”の方に心が振り向いたのであります。
“神”の方に心が振り向けば“神の法則”の支配する世界に出られる訳であります。長見ハツエさんのところへは既にお隣の奥さんから、「白鳩」誌や『生命の實相』が届けられていて、それを読むように勧められていたのですが、長見さんはまだ、心がその方に向いていないで、現象世界の常識的法則である「人間は病むべきもの、死すべきもの」という法則に追っかけられて、つかまりそうになっていたのです。しかし既に、「白鳩」誌や、『生命の實相』の真理のコトバは長見さんのお宅に這入(はい)って来ていた。これらの神誌や聖典には「真理」が説かれている。「真理」は「神のコトバ」であるから、「神さま、助けて下さい」と長見さんの心が“神”に振り向いたときに、「真理」即ち「神の法則」が夢の中で擬人化して白髪の神様の姿となってあらわれ、気合と共に『生命の實相』の本を突き出されると、追っかけて来る悪魔の姿は消えてしまった。そして長見さんは『生命の實相』を今度は本気で読む気になり、『生命の實相』を読むにしたがって、“神の法則”のみが最高の法則であり、その法則には「人間は神の子であり、病気はない」と書いてあるから、それに反するその他の法則は、人間の心がつくったり、みとめたりしたためにあらわれた途中から出来た副次的法則であるから、“神の法則”の前には無効となって病気は消えてしまう結果となったのであります。
神の法則は、最高の法則でありますから、それは一国の憲法にも相当するものであります。そして人間の心がみとめたり、思ったりしたために病気があらわれたり、不幸が発生したりする法則は、根本の法則ではなく、途中から人間の心のはたらきによって出来た法則でありますから、これは憲法よりも後に出来た法律のようなものであり、それが憲法違反の法律であるときには憲法を引き合いに出して来ると、「違憲であるから無効である」と判決が下るように、「神の造り給うた世界に悪はない」という「神の法則」を、吾々の認識の世界の法廷に持ち出されると、この聖経の一節にある通り、 「物質の法則は汝を支配すること能(あた)わず、罪の法則は汝を支配すること能(あた)わず、迷いの法則は亦汝を支配すること能わず」 それ故に、今までこれらの法則に触れるとして「病気」と宣告せられて寝ていた者も無罪である故に、病気は刑から放免せられて病床から起ちあがることが出来るようになるのであります。
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