| [617] インターネット道場―――入龍宮不可思議境界録 L |
- 信徒連合 - 2015年09月22日 (火) 09時19分
インターネット道場―――
入龍宮不可思議境界録 L
叡智の断片P.211−215
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醗酵菌のような微生物は、ことに人間の精神に感応する度合いが大きい。それは、人間は非常に高い程度の人格の独立性をもっているに反して、微生物は、ほとんど人格の独立性をもっていない。したがって彼らは高度の人格たる人間の精神に影響されるのである。酵素肥料などを使用するにも、これを用いる人の気持ちが拝む気持ちである場合には非常に成績がよく、そうでない場合には成績が悪いことになる。農事試験場などでただそれを唯物論的に扱っても成績があがらないのはそのためである。結核菌なども人の心持次第によって如何様にでもその毒性が変化するのである。ここに患者や周囲の人の心の持ち方で治癒すると否との分かれ目がある。
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創世記に「神言給けるは、我儕(われら)に象(かたどり)て我儕(われら)の像(かたち)の如くに我儕人を造り・・・」と書かれている。何故神は「我儕(われら)」と複数の形でのべられているかと云えば、すべてのものを造り出すときには、唯一神が唯一のままでは創造は営まれないからである。唯一者が自己限定して複数にならなければ創造することは出来ないのである。「神の像(かたち)の如くに之を創造(つくり)、之を男と女に創造(つくり)たまへり」とある様に、凡ての創造は唯一者が自己分化して「働きかける方」と「働きかけられる方」との二つに分けなければものを産み出すことは出来ないのである。例えば画家の一つの生命が絵をかくには、「絵筆」と「カンバス」との分化する。「絵筆」は能作者(陽)であり、カンバスは受動者である。能作者と受動者が相会して絵が創造される。凡て一つの生命が陰と陽とに分かれて、再び相合うとき表現が完成するのである。
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『神』とはその字画が「示」篇に「申」である様に、表現せんとする<いのち>である。ひょうげんする(示)(申)――シメシ・モウス ――と云う事が神の本性である。「申す」はコトバである。表現の欲望を圧抑したとき生命は枯死する。枯死するというよりも「其処にいなくなる」のである。
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人間が地上に生まれたのは、神が神自身の生命を表現せんがために生まれ出でたのである。絵を描くにも初歩から次第に高級な技術に進むにしたがって、デッサン、水彩画、油絵と色々の表現する道具を変えて行く様に、吾々は地上に於いては、最初の初歩的な過程――物質的抵抗の強い世界を構造して生命が動き出して表現する。世界は「表現せんとする生命」にとってはカンバスである。それはある時期には画家がデッサンを練習しなければならない過程を経る様に、魂の進歩にとって必要な段階なのである。しかもデッサンにはそれにふさわしい味がある。それと同様に、地上の生活の生活にも、地上ならでは表現出来ない味があるのである。
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<太陽>が自己を表現せんとすれば<光線>が必要である。光線がなければ<太陽>は自己を表現出来ないのである。それと同じく、「神」が自己を表現せんとすれば「人間」が必要である。「神」は「人間」と云う「光線」をつくり出してはじめて神自身を表現するのである。光線がなければ太陽はないも同然である。人間がなければ神はないも同然である。人間は神の最後の目的であり、希望であり、完成である。
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人間は如何にして生まれるか。それは神が自己を表現せんとして、<いのちの波>を送るから生まれるのである。その<いのち>の波の受信機となるものが「夫婦の和」であるのである。素直に<いのち>の波を受信した瞬間に妊娠する。
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潜水夫が潜水服という重い着物を着て海中にもぐって行く様に、人間は「肉体」と云う重い「皮袋」を着て抵抗の少ない霊の世界から、抵抗の多い物質の世界にあらわれ出るのである。抵抗のない世界では表現は出来ない。カンバスのないところに絵はかけない。カンバスとは表現に必要な抵抗である。
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地上の世界は、画家にたとえれば一種のカンバスの世界である。描き終れば捨て去るのである。キリストはラザロを一たびは生き返らせ給うた。併しラザロは決して永久に地上に生き続けたのではない。人間は誰でもいつかは肉体を捨てなくてはならない。併しそれは、苦しい事ではない。楽しい事である。吾々は肉体をすてる事に依って、より一層自由自在な世界へ出られるのである。
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