| [684] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より D |
- 信徒連合 - 2015年09月29日 (火) 09時27分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より D
<お姑さん大好き>
私が全国白鳩会の副会長という立場で、全国を廻っていた頃のことである。熊本へついたのが、朝の10時ごろで、白鳩会の幹部達に迎えられて、幹部会を開いた時のことである。会をとじたのが午後の4時近くだったと思うが、私のすぐ隣りにいた幹部二人のひそひそ話が、耳にとまった。
一人は中年で、もう一人はまだ20代の若い婦人であった。その若い方が、年かさな婦人にしがみつくようにして、何か訴えていられる。おせっかい屋の私は、思わず、言葉をはさんだ。 「どうした、どうしたんですか?」 「先生、この方には、今年70歳になられる姑さんがあるのです。手足のあっちこつちに、神経痛もあるので、そのせいもあるのでしょうが、ご機嫌を取るのが難しいと、いつもこの奥さんが、言っていられるのです。今日も、お家を出してもらうとき、『2時までには帰って来ます』と言って出てきたのに、話がはずんで楽しかったので、思わず終いまでいてしまったので、今家へ帰ると、どんなに叱られるであろうと気が気でないと言われるのです」
年かさの婦人の説明をきいて、私は次のように言ったのである。 「奥さん、あなたは、『家のお姑さんは気難しい、気難しい』ときめていられる。お姑さんを思い出す度に『気難しい姑で、なかなか機嫌を取りにくい』ときめていられる。それは想いと言葉の力で、お姑さんの気難しさを造っていられることなのですよ。まあ理屈は別として、今日は一つ体験を出して見るのです。人間は善いにつけ悪いにつけ、思いつめている時は体験が出るものです。ところで、これからあなたは家へ帰るのに時間はどれほどかかりますか?」
「15分です」 「15分? それは素晴らしい。ちょうどいい。アメリカのマーフィーという学者は『信仰の魔術』という本を書いて、治療や運命の改善に大きな効果を挙げていますが、そのなかに、失明の宣告を受けた少年に『君はまず父親にもっと感謝すること。次に毎日朝晩の15分間を合掌して、医者が“奇蹟だ、失明はまぬがれたぞ“と驚きの叫びを挙げている姿を描きなさい』とすすめて、少年が描いた通りの結果をおさめたという例を書いているのです。15分、ともかく、15分あるのは素晴らしい。
体験が出ますよ。本当は、あなたとお姑さんとは仲がよいのですよ。それが神の造り給える実相の世界の親と子の姿です。あらわれはどうあろうと、真相は仲のよい親子なのです。お姑さんからは、あんたは可愛い息子の嫁です。あなたにとって、お姑さんは、この世で一番頼りにしている夫を生んで下さったんですもの、仲がよいにきまっているのです。たとえ継父、継母の間でも、神のきめて下さった親子です。生長の家の信仰をもっていられるあなたには、既にわかっているはずです。
そこで、これからの帰り途の15分間、おかあさんのニコニコ顔を描きながら、感情をこめて『お姑さん、ありがとうございます。お姑さんは素晴らしい神の子さん、やさしくて深切で思いやりのある方、おかあさん大好き、大好き』と、抱きつきたいような思いをこめながら、お帰りなさい。真剣に感情をこめてですよ」 こう言って、おくり出したのであった。
ところが、それから20日ほどしたら、その夫人から次のような感謝の手紙を受けとったのである。「平岡先生、あの日は寒い寒い日でございました。私は襟巻に、首をすくめて帰りましたが、先生からおしえられた通りに一所懸命、唱えました。後で考えてみると、あの15分間は.寒いと思っただけ。道で誰かにあったか、会わなかったかも覚えがないのです。
『お姑さん大好き、大好き』と言っていたら、今まで粗末に思っていたことが申しわけなくて、すまない済まない気持になったのです。そして、それまで尊敬していたつもりでしたが、よくよく考えてみると、体裁よく敬遠していたにすぎなかった。お姑さんも淋しかったに違いない。すみません、すみませんという思いで、家の前まで来ました。
でも、家の前まで来ると、やっぱりドキンとしました。ちょっと立ちどまって、ためらいましたが勇気を出して戸を開けると、そこにお姑さんが立っていられたのです。『おそくなりまして……』と恐る恐る申しますと『ああ、良いよ、いいよ』と言ってくださるではありませんか。思わず玄関の畳に両手をついて、もう一度『おばあちゃん、本当に遅くなって申しわけありません』と謝ってから、おばあちゃんの顔をみつめました。おばあちゃんは、やわらかい眼ざしで、『ああいいとも、よいお話をきいて来たんじゃろうもの……』と言って下さったのです。私は嬉しくて涙が出ました。考えてみると、わけへだてしていたのは、私の心だったのです」
言葉とは、こんなにも神秘な創化力をもっているものなのである。親子の仲をへだてているのも、夫婦の間を粗末にしているのも、この言葉の神秘を体得していないからなのである。まことにも、言葉は宇宙の創り主なのである。
<ただ善のみ・ただ豊富のみ>
私が故郷の富山市で、毎週月曜日の午後七時から九時まで月曜会という集まりをしていた頃のことである。 昭和25年、12月の第二月曜の晩だったと覚えている。一通りの話が終わったところで、私が「質問はありませんか」と尋ねると、40歳ばかりの、にこやかな顔をした奥さんが立たれた。
「平岡先生、生長の家の話をきいたら、経済問題も救われるのでしょうか」 「経済問題? 当たり前ですよ。生長の家は宇宙の真理を探求しているのです。無限供給の源泉はどこにあるかをおしえているのです。そして、その無限供給の源泉と手をつなぐことを教えているのですから、経済問題の解決などわけないことですよ」
「私は、子供を5人かかえている未亡人です。どんなに働いても働いても、子供達を養うことができません」 「奥さん、子供を養い育てるのは、神様のお仕事なのですから、安心して下さい。私たちがこの世に生を受けたということは、神様の御計画によるのです。したがって神様が責任者なのです。神様が、私たち一人一人の中に働いて、私たちを生かし、育て、守っていてくださるのです。まず、このことがわからねばなりません。
今あなたは、5人の子供をかかえた未亡人で、なかなか養い育てることができないと言われた。あなた一人の女手で、その働いたものを6つに分けて生きるということになるのだから、なかなかでしょう。でも、神様は一人一人の中に生きる力を与えて、日光や空気を初め、すべてのものを与えてくださっているのです。その上、素晴らしい生きる力を与えてくださっていればこそ、今朝食べた白いご飯が、明日の今頃ともなれば、赤い血になり、黒い毛にもなるのです。夜眠っている間も、身体の一切の器官が絶え間なく働いているのです。つまり、神の生命が働いているのです。これらの恵みに対して、感謝したことがありますか。喜びの叫びを挙げたことがありますか。
あなたの肉体、あなたの子供たちの身体を守り育てていられるのが神様です。あなたの子供たちの衣食住に必要なすべてを与えるために、思いを凝らしていられるのは、あなただけではないのです。そのすべてについて、心配して下さっているのが神様です。しかも、神さまは豊かに豊かに与えたいのです。
われわれはみんな可愛い可愛い神様の一人子なのです。母が子を愛する如く、神の愛がわれわれに注がれているのです。真理の探求は、まずここに気のつくことから始まるのです。そこにめざめたら、まず『神様、ありがとうございます。ありがとうございます』を言わずにいられなくなるはずです。わかりますか。神の生命が私たちの中に働き、生かし育てまもっていられるのです。しかも、豊かに豊かに与えていられるのです。
では、その豊かに豊かに与えていられるはずの供給が、どこでどう妨げられて、現象の私達の手に入らないのか、と不思議にお思いになるでしょう。そうです。それを妨げているものは、私達のおもいです。言葉です。
ところで、あなたは貧乏がきらいなのでしょう? もし、そうだったら、今日以後は『私は貧乏で』という言葉は絶対に使わないこと、口がくさっても言わないことにするのです。『私は貧乏』と一度言えば、貧乏の棒が一周りずつ太くなるのですから、こわいですよ。反対に、豊かなこと、素晴らしいことを口ずさむのです。今日以後は、口の休んでいる限り、 “ただ善のみ ただ豊富のみ“ という言葉を口ずさんで下さい。
これは、谷口雅春先生がお示しくださった言葉なのです。『この世は、神の善意にみちている世界であって、貧乏や病気や不幸は、自分の迷い心で作らない限り、絶対にあり得ないのが真理である』と教えられているのです。
“ただ善のみ、これが実在。 ただ豊富のみ、これが実相である“ と示されているのです。『ただ善のみ、ただ豊富のみ』この言葉を絶えず、口ずさむのです。あなたの運命は、急激に、あるいは徐々に、必ず好転するのですから。神の無限供給の口をとざす壁は、暗い心ですから、くれぐれも暗い言葉を使ったり、暗い気持を起こしてはいけないのです」
第二月曜の晩の話は、これで終わった。彼女の名は八橋さんである。
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