| [729] インターネット道場――辨道聴き書(べんどうききがき) (7)『生命の實相』第34巻より |
- 信徒連合 - 2015年10月04日 (日) 08時42分
インターネット道場――
辨道聴き書(べんどうききがき) (7)
『生命の實相』第34巻より
<神の子の標準を出せ >
その時小学校の先生が起立して発言した。「先日から、豊島区全体の小学校の連合絵画手工展覧会があるのでございまして、私もその図画の係員になっているのでございます。会場は仰向西小学校でございます。その生徒作品の審査員として来られましたのが東京府の絵画手工方面の視学をしていられる 佐藤先生とおっしゃる方であります。
この佐藤先生が出品されている児童の絵画手工に対して、優等とか佳作とかその点数に応じて、金紙を針、銀紙を貼りしてゆかれるのでありますが、佐藤先生が児童の作品を審査される時には、一年生の作品の前に立っては『一年生、一年生、一年生』と自分に言って聴かせているとでもいうような調子で、いちいちうなずきつつ、その作品に点数をつけてゆかれるのです。
二年生の作品の前では叉『二年生、二年生』とやられるのです。そして実にその審査の標準が一定して過(あやま)たないのです。私は感心致しまして、『佐藤先生、あなたはどういうわけで一年生の作品のまえでは一年生、一年生とうなずかれ、二年生の作品の前では二年生、二年生とうなずかれるのですか』とたずねますと、
佐藤先生は『これは常住の心を保つ方法です。常住の心が無いと審査の標準が狂ってしまう。どの作品にも一定の標準を維持するには、自分の心にどの標準を保つかということを常にいいきかせていなければならない。われわれの心のうちには、一年生の標準もあれば、二年生の標準もあり三年生-----等々の標準もある。どの標準を出してくるかは、その欲する標準を言葉で呼び掛けて、自分のうちにあるその標準を出してこなければならない』とおっしゃるのでございます。
そこで私は『佐藤先生はなかなか宗教家でいらっしゃいますね』と申しますと、佐藤先生は、『私は宗教はしらないが、そういう君は何か宗教をやっているようだね』とおっしゃるのです。
そこで私はボタン孔の徽章を指して『ええ、私はこのマークにあるとおり生長の家の家族でございます。先生のおっしゃいますとおり、われわれの心の中には、いろいろの標準が満ちている。善い標準もあれば悪い標準もある。その悪い標準が出て来て行動すれば、行いが乱れてしまう。善い標準が出て行動摺れば行いが正しくなる。その善い標準を呼び出して日常生活をリードしてゆくには、さっき先生が言葉で自分自身に言ってきかせて、『一年生、一年生』と一年生の心を呼び出されましたように、生長の家では、言葉で常に自分自身に『神の子、神の子』と言ってきかせて自分の内にある神の子なる標準を呼び出す事にするのです。
するとすべての行動が次第に神の子なる標準に合うように高まってき、すべての生活能力が次第に神の子なる標準に高まってき、健康もよくなり能力も増進するのでございます』とこう申し上げますと、その佐藤先生は大変お喜びになりました。」
この先生の話を聴いて谷口先生は、さっきから小理屈を言っていた人の方を振り返られた。
「××さん、あなたは近ごろあまり自然科学の本をお読みになって、あなたの内にある現在の自然科学者の標準をお出しになったのでしょう。一年生の標準を出してきたら二年生の作品はわからない、現在自然科学者の標準では生長の家はわからない。生長の家を理解するには、あなたの内にある『神の子』の標準をお出しにならねばなりません」とおっしゃった。
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