| [744] インターネット道場―――体験実話特集・平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より J |
- 信徒連合 - 2015年10月05日 (月) 07時12分
インターネット道場―――
体験実話特集
平岡初枝先生「しあわせを見つめて」より J
<一人が変われば>
村のおかみさん達の集まりである木曜会でも、昨年似たことがあった。その曰初めて顔を見せた島田たきという、60歳近いおばさんの話である。
「よく来ましたね」と言うと「うちに災難ごとが続きますので……」と、憂い顔で話し出した。
「主人は昨年交通事故で足を痛めましたが、3度も手術をやり直し、入院してもう1年も近くなりますが、今だに退院のお許しが出ないのです。それに息子の嫁が腹が痛い、尻が痛いと医者にかかり通しですのに、息子も2、3日前から頭が痛いといってブラブラしているのです。村ではもう稲刈りが始まるというのに、家ではこのざまで、どうしようかと心配でならないので来ました。私のような貧乏人は救われそうもないのですが……」
「島田さん、私は貧乏人、私は運が悪い、というような言い方をやめなさい。神さまは万人の父であって、神さまには可愛い憎いの区別はないのです。すべては受け取る人の心構え一つにかかっているんですよ」
私は、祖先を初め一切に感謝する道を説きはじめた。 「なる程ね、なる程ね。私の受け取り方が間違っているのですね」 感心して聞いてくれていた島田さんが、しばらくして右の手を上に掲げて、喜び出した。
「あれ、右手の痛みがとれました」 「あれ、腰の痛みもとれました」 「あれ、膝も、頭も……」 つぎつぎに狂気のように喜ぶので、周りの者は驚くばかりであった。それだけではない。翌日、病院から電話で主人の退院が許されたという通知があった。
そして、たきさんから「病気なし」の話をきかされた若夫婦も、もう頭も痛くない、お腹も痛くないと言って、2人で田圃へ出かけたというのである。
人間だけではない。眼病でつぶれそうになっていた鶏の眼までが、明けの日からパッチリとあいて、ピンピン元気になったという不思議な現象さえ出てきたのである。
こうした不思議な現象を理解することができたら、鶯の鳴音は鶯だけの問題でなく、鶏の目は鶏だけの目ではなく、そこに働いている雰囲気、ある強力な心の影響ということがわかるであろう。一人の工場長や会社の社長の雰囲気が、その工場や会社の浮沈に大きな影響があるわけでもある。
<一切感謝の眼鏡>
話は脇道へそれたが、柳沢老はその後間もなく、紀州の串本周辺で漁夫をしていた乳兄弟を訪れたそうである。ところがそこの漁村では、海が荒れて連日獲物がなく、村中が青息吐息という有様であっだ。そこへ来合わせた柳沢老が、見過ごしにするわけはない。
「漁がないなんてことは、絶対にない。神は愛であり、無限の供給の源だからだ。お前達はご先祖に供養が足りないだろう。さあ、みんな集まって『甘露の法雨』を供養するのだ。訳がわかってもわからなくてもよい。読んでいるうちに追々に分って来るのだ。漁に出るときは、女房と手をとって拝み合うのだ。ご先祖への一番善いお供物は、夫婦の拝みあい、親子の拝みあいなのだ。そして、舟を拝み、漁具を拝むのだ!」
30年の修行を積み、生命の真理にめざめた柳沢老の気迫に押されて、皆は拝みに拝んで出かけたという。
その日の夕方、浜は黒山の人だかりで、何ごとかと近づいた柳沢老は、大歓声とともに胴上げされてしまった。
「やあ、福の神だ、福の神が来たぞ!」 乳兄弟たちの漁船が大きな鯨をいとめて、浜に帰ってきたところだったのである。何年ぶりかの大漁に警官まで出て整理にあたるほどの人出だったそうである。
「神様は無限の富の源なんだ。神の子であるすべての人間を、豊かに富ませてやりたいのが神のみ心なのだ。しかし、お前たちは、その無限の富の供給を受ける道をしらなかった。わしは、その道を教えてやったまでだ。祖先に感謝すること、家族の拝み合い、自分の仕事に感謝して、一切の人々を神の子として拝むこと、それが神の無限供給を受ける道なのだ。わしは、その道を教えただけに過ぎないのだ。ここにいる皆さんも、その道を、実行すれば、鯨でも何でも獲れるのだ……」
柳沢老が熱弁をふるって、皆を感動させたことはいうまでもない。 その後10日とたたないうちに、乳兄弟の3家族は再び小形の鯨を捕獲して、見たこともないほどの札びらをもてあまし、うれしい悲鳴をあげたという話である。
貧乏も果報も、己が心一つが織りなす人生の綾なのである。時々刻々、念々に、自己を清めて、実相の完全をうつし出したいものである。時々刻々念々に、などというと、難しくて息つく暇もないような気がするかも知れないが、そんなに難しく考える必要はない。ただ、中心の心一つを整えて、実相の完全に焦点を合わせればよいのである。
「人間は神の子である。神の生命に生かされ守られているのである。神の偉大な力に守られている自分に、病気や、不幸、災難などという、悪のありようはずは絶対ない。
この世は、神が治め経営していられる完全な世界なのである。現象はどうあろうと、実相は完全である。生きること、愛すること、進歩することの三大原則の展開のための道程にすぎない」と、深く信仰すれば、それで良いのである。
赤い眼鏡をかければ一切が赤く見えるし、青い眼鏡をかければすべてが青く見えるように、信仰の眼鏡、つまり一切感謝の眼鏡をかければ善いのである。
感謝の念のとどく限り、宇宙すべてが嬉しい喜びの波を立てるというわけである。
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