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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

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[99] インターネット道場ーーー生と死と因縁と罪障消滅について(突然死の霊魂)
信徒連合 - 2015年07月28日 (火) 09時07分




合掌、ありがとうございます。

この資料は、『白鳩』誌 創刊500号記念 昭和51年4月号箴言を“童子”さん(ブログでの仮名)が「“本流復活”掲示板」に引用掲載されたものです。開祖・谷口雅春先生の御執筆の御文章ですが、私達信徒の者はシッカリと勉強しておく必要を感じます。雅宣総裁は此処まで説けませんし、他の宗教家でもここまでわかりやすく解ける人は滅多に居られないと思います。

なお、“さくらふぶき”さんの質問と山下一臣さん(いづれもブログ仮名)の回答もご参考までに添付いたしました。 再拝



///////////////////////////////////



生と死と因縁と罪障消滅について(突然死の霊魂)
『白鳩』誌 創刊500号記念 昭和51年4月号箴言

日時:2011年04月30日 (土) 00時49分
名前:童子



◆前世の業因を償却するとき

 昨年(昭和50年)12月30日の北海道新聞の社会面に『孫娘、祖母殺す ― 金欲しさからか愛人と』という題で次のような記事が出ている。

 「暮れも押しつまった29日、十勝管内○○町で二ヶ月前、ひとり暮らしの老女が、十八歳の孫娘とその愛人に殺された事件が発覚、二人は強盗殺人、死体遺棄の疑いで帯広署に逮捕された。祖母の所持金目当ての犯行で、事件後二人は農協支所の預金口座から29万円を引き出し生活費に充てていたほか、殺した祖母の家に移り住み、押し入れに押し込んだ死体とともに、生活するという異常なほどの大胆さだった」

 以上が事件の概括で、新聞は、そのつづきにもっと詳しく事件を書いている犯人の少女はまだ未成年なので、新聞の未成年者の前途を傷つけないための儀礼として名前は書かないで匿名A子と書いている。殺された老女は七十七歳で、その名前は書いてあるが、別にここに実名を発表する必要はないので、ここではK女と書いておくことにする。

 特に親を尊敬しないように、親に反抗するように教えるのが民主主義教育だとしても、学校では孝養を教えない教科書になっている日本の現代では、こんな殺伐な出来事でも珍しいことではないが、それがわれわれの間で問題になったのは何故かというと、

 その殺された老婆K女が『白鳩』誌の誌友で、「七十八歳の老齢にもかかわらず十数年前から一生懸命に、毎月『白鳩』誌を百部から大きな風呂敷に背負い、毎日毎日、愛行を続けて、誌代は、お金を出さなければ読んではもらえないからとて一人一人に売って歩いていらっしゃいました」という白鳩誌友連合会長からのお手紙で、何故そんなに愛行をしているものが、孫娘から殺されるというような非情な最期をとげなければならなかったかという質問がつづいて書かれているからである。


 これは前例にあげた純潔な貞節な妻でありながら、なぜ不潔な性病をうつされて苦しまねばならなかったか? という疑問にも良く似ているのである。こういう問題は前世的な因縁が混入しているので、現世だけで計算していると、帳尻が合わぬことになるのである。



◆他を赦さなければ、自分が赦されないのである

  さて、毎月『白鳩』誌を百部から大きな風呂敷を背負い、毎日毎日愛行を続け、お金を出さなければ読んでもらえないからと一人一人に売って歩いたK老女が孫娘とその恋人とに殺された ― 

  そんなに『愛行』をしていたのに「殺された」と「愛行」と「殺された」とを結び合わして考えるのは、少し思想の混乱だとわたしは思うのである。

  そのK老女は孫娘が●●という青年に恋愛して結婚したいというのを〃赦さなかった〃か、あるいは〃まだ十八歳位なのに勝手に情夫をつくるとはけしからぬ悪い娘だ〃と憎んでいた。

  相手を〃悪い娘〃だと批判し、〃赦さない〃のは相手を〃斬る心〃であるから、その娘の恋人である●●が刃渡り十八センチのナタでK老女を斬り殺した。

  〃前世の因縁〃ということを考慮に入れないでも、自分の運命は〃自分の心の投影〃だという、生長の家の説く〃心の法則〃だけによっても解釈できるのである。



◆和顔愛語讃嘆ができなければ

  多分、そのK老女は善人であったのであろう。それだからこそ『白鳩』誌を熱心に人に勧めて歩いたのであろう。その年齢の人は明治生まれの人であるから、明治時代の男女関係の道徳を〃善〃の基準として心にシッカリつかんでいたのであろう。善人は時として、自分のつかんでいる〃善の基準〃に合わないものを、〃悪〃と見て、これを非常に憎む。

  その娘は新聞によると、八歳のときから祖母のK老女に引きとられて育てられた。K老女はこの孫娘を愛していたので、「小さいころから大のおばあちゃん子で、K老女が親しい人たちに口にするのは孫の話ばかり」だったという。

  そのように愛着していた孫娘が今度はその〃おばあちゃん〃より、もっと愛する男が出来て、おばあちゃんの家を出て、その男と昨年の9月から○○市のアパートに同棲することになった。

  おばあちゃんのK老女にしたら、その男に自分の〃掌中の珠〃を奪われた淋しい思いであったにちがいない。だからその男を憎んだ、そして自分を棄ててその男のところへ同棲した孫娘を憎んだ。憎んだから、この二人が「結婚させてくれ」といっても許さなかった。

  それで孫娘の恋人●●の郷里に行くことにするからその旅費を貸してくれと祖母のK女にたのんだが、K女は二人の結婚には反対であったし、その青年を、自分の愛孫を自分から奪っている男だと憎んでいるからその男の郷里へ行く旅費を出してやることを拒絶した。

  こんな時K老女は生長の家の生き方を示すように『和顔愛語讃嘆』で孫娘とその恋人に接することができたろうか。きっと腹を立てて口ぎたなく罵っただろうと思われる。

  『白鳩』の雑誌を売って歩くのにいくら熱心であっても、日常生活に、和顔愛語讃嘆で孫娘とその恋人の青年に接することが出来なかったら、それでは彼女は〃生長の家人〃ということはできないのである。



◆主よ、主よと言う者必ずしも神の国に入るに非ず

  『白鳩』の誌友たちの疑問は「生長の家に入信していて、どうして、そんな最悪の事態がおきるのか」ということだと、その教区の白鳩会長さんからの手紙に書いていられるが、

  〃入信する〃ということはどういう意味であるか。イエス・キリストも『主よ、主よと言う者必ずしも神の国に入るに非ず、神の御心を行ずる者のみが神の国に入るのだ』と説いているのである。

  キリスト信者になって、〃主イエス様〃といっていても、神の教えを生活に実践しなければ救われないという意味である。



◆縁によって生れた者は前生の繰返しをする

  それにしても、和顔愛語讃嘆が出来ないで、ただ自分の孫娘の愛を奪われた悲しみから、その青年を口ぎたなく罵っただけで、その青年から惨殺されるということは、あまりにも、小さな原因に対して、大きな結果で報いられている。

  これは単に現世だけの関係で、単に〃憎んだ者から憎まれる〃という〃心の法則〃だけでは、原因と結果とのバランスがとれない、これには必ず前世からの因縁があると直感したので、わたしは神想観して神さまに御心を聞いたのである。すると次のような啓示が来たのである。


  それは前世関係によるものである。K女の前世は、武士の未亡人であった。性格は生まれ変わっても変わらないもので、矢張り今の彼女のように堅苦しい善人であった。〃縁をもって集る〃という法則によって前世に縁があったものが、また生まれ変わっても同じような縁のあるところに生れる ― これを縁生(えんしょう)というのである。

  現世で彼女の孫娘に生れたA子は前世ではK女の一人娘に生れて来ていた。K女は、この一人娘をどんなに愛していたであろうか。その一人娘に恋愛した青年ができた。娘はいつしか、その青年と肉体的にも懇ろになってしまった。それがやがて母親のK女に知れた。A子は二人を結婚させてくれと頼んだが、その青年は町人の家の息子であった。武士の家の娘が町人の男と恋愛するなんて、母親であるK女はとてもそれを許すことが出来ないで、二人を厳しく叱責した。その叱責に堪えかねて、二人は身投げして死んだのであった。謂わば情死を遂げたのであった。

 この二人は前生(ぜんしょう)にあった縁によって、今世に生れても、互に触れ合う位置に生まれ、そして相逢う機会を得ると、潜在意識に前世の愛人であった記憶があり互に牽引されることになり前世と同じく恋愛関係に入ることになったのである。



◆前世の罪障消滅のためにする修行

 前世のK女は娘が恋人の青年と情死したのを非常に悲しんだ。自分が娘があの町人の青年の嫁になることを許してやれば、二人は死なないで済んだであろうに。自分があまり厳しくて武士の娘は町人の嫁にはなれないと許さなかったために自殺したのだと考えると、彼女は〃自分が二人を殺したのも同然だ〃と考えた。

 〃自分は殺人者だ〃という意識が彼女の霊魂の奥底にあるので、彼女はその罪を償うために、何か人を生かすことをしなければならない、愛行をしなければならないという潜在意識があるために彼女は真理の雑誌『白鳩』を毎月百部以上も大きな風呂敷に包んで頒布して歩いたのだった。

 それは前世の罪障を消滅させたい潜在意識が、そうさせていたのである。



◆本来〃悪〃は無い

  前世に於いてK女の一人娘に生まれていたA子は、今世に於いては〃縁生(えんしょう)〃によってK女の孫娘になって生まれて来たのだった。K女は前世に於いて一人娘を自殺させた業因の報いで今世にうまれた一人娘は早く死んで、一人娘と早く別れねばならなかった。

  過去に自分のやって来た行為の業報を今世に受けて、前世の業が帳消しになるわけである。その娘が遺した孫娘がA子である。そのA子がK老女の一人娘で、自分の愛する青年との結婚をK老母(自分の母親)に拒否された結果青年と情死した娘の霊魂の生まれ代りなのである。

  人生は今世に於いて、過去に縁のあった者が互に触れ合う環境に生まれて来て、前生(前世や前々世等をも包括して)に於いて行なった行為(業)の償いをしたり、帳消しをしながら、霊魂が磨かれて進化し、益々一層多く実相の完全なすがたが顕現して行くようになっているのである。

  〃悪〃と見えているものも、本来〃悪〃ではない。それは〃磨き砂〃みたいなものであって、その〃磨き砂〃のついたのを落とすために、擦っているうちに、その本体が磨かれて、本来の光沢を発揮することになっていくのである。



◆金を出すのを惜しんではならない

  K老女はその前世に於いて、自分が娘と青年との恋愛を許さなかったために、その二人が情死をしたのは、自分が彼等を殺したようなものだと思い、その罪障を解消するために人を救おうと決意し、〃真理〃を説いて人を救う雑誌『白鳩』を毎月百部以上も人々に頒布してあるいた。

  それは頒布といっても純粋な『布施』ではなかった。布施でないから自分はお金を損することはなかった。金を出して求めた本でないと、単に献本されただけでは熱心に読まないだろうからという理由はあったが、それは売って歩いたのであった。純粋に自分がお金を損する布施であったら、もっと完全に罪障が消滅したかも知れないし、もっと自由に人にお金の恵む心があったら、それで罪障が消滅し、殺されずに済んだかも知れなかった。

  即ちA子とその恋人の青年とが、青年の実家のある郷里へ行く旅費がほしいので貸してくれとK老女に頼んだけれども、老女はそれを冷淡に拒絶した。「このおばあちゃん、金を何十万円ともっているくせにこれ位の金を貸してくれないのか」と思うとカッと腹が立って、そんなら「殺して金をとってやろう」という殺意を生じているのである。

  みんな自分の蒔いた種を収穫しながら、魂は罪業を消滅して進化して行くのである。



◆霊魂が浄化されて霊界に旅立った彼女

  K老女が金を出すのを惜しんだのは、必ずしもケチなわけではないのである。潜在意識は何でも知っているのである。「かくすればかくなるものを知りながら、止むに止まれぬ潜在意識」とでもいうものが人間の運命を暗黙のうちに導いて行くのである。

  K老女の潜在意識の中にはその前世に於いて自分の娘の結婚を許してやらなかったために、両人は心中して死んだ。それは自分が殺したも同然であるから、その償いをしなければならない。完全な〃罪障の消滅〃は自分が〃与えた〃と同じものを〃与え返される〃ことによってである。「眼には眼をもって報い、歯には歯をもって報い」である。

  それだから、彼女の霊魂は、その潜在意識の底んい於いてその罪障消滅は、自分が殺した者から殺されることによって完了することを知っていた。それだから彼女の潜在意識は暗黙のうちにその目的を達するために、情死した両人によって自分を殺させるためにお金があっても貸してやらず、A子両人が腹を立てて殺意を起すように段々仕掛けて行ったのであった。

  嘗てK老女が情死させた両人によって、鉈によって斬り殺されたK老女は、表面から見たら残酷なように見えるけれども、これは〃罪障消滅〃という題で彼女自身の潜在意識が創作した予定の筋書きであったのである。

  〃悪〃と見え、残酷と現象的には見えることも、〃悪〃はないし、〃残酷〃というものはないのである。K老女の霊魂はそれによって過去世の魂の負債(おいめ)や、罪障を償却し去ることができて、洗浄された清らかな霊魂となって、霊界に誕生して行ったのであった。



◆突然に起る急激の死は霊魂の浄化に役立つ

  K老女が病気によって死なず、突然の襲撃によって死んだことは、第三者から見たら、悲惨だとか残酷だとか思われるけれども、罪障及び、過去の業の消滅して霊魂が浄化するためには、ゆっくり長期間患いながら死ぬよりも、余程効果的なのである。

  急激な肉体の死は、恰も自分(霊魂)の住んでいる家が地震のために急激に倒壊したり、突如として火災を起したりした場合、とるものもとり敢えず、裸一貫で、その倒壊する住居や、燃える家から跳び出してのがれるのにも似ている。

  その人の魂は裸一貫で逃げ出すより仕方がないので、過去に自分が愛玩したり、珍重したり、執着していた魂の薫習や悪癖や、業を持ち出す暇がないので、魂は生まれたままの実相そのままに浄められて、今までの悪癖や薫習や、魂の身についていた業がなくなって、霊界に出生するのだから、今後の魂の進化が急速になるのである。

  これが突然に見舞って来た悲惨と見える〃急激の死〃の功徳である。K老女は、眠っているところを鉈で滅多撃ちに斬殺せられているので、本当に〃急激の死〃であり、その功徳を全面的に彼女は得て霊界に旅立ったのである。



◆艱難の中にある神の祝福を見よ

  『生命の實相』霊界篇の九十九頁には高級霊の〃急激の死〃に伴って生ずる功徳に関する質問に対して次のように答えている。

  『答え ― 急激の死といえども予定されたるものである。それは決して偶然ではない。それは正常の進化の道程を進んでいないで、永久に此の世への輪廻を繰返さねばならぬような或る霊魂の進化を早めるために〃摂理〃によって決定されたものである。急激の死によって起されたるショックはその人の霊魂に強き反動をひき起して直に進化の正道を進ませはじめる。その人の霊魂は反逆せんとし、理解せんと試みる。理解せんと努力することは進化する道である』

 常に〃摂理の手〃 ―  神の慈悲の導きが吾々を導いていられるのである。不幸と見える事件の中に幸福の要素があるのである。難事と見えることの中に祝福があるのである。

 それだから黒住教の開祖宗忠師は『難有り、有りがたし』と読みかえて、難事来る毎に『ありがたし』と感謝すべし、そのとき難事は消えて、ありがたき事があらわれて来るのであると教えられたのである。



◆霊魂の進化のみが人間出生の目的である

  つづいて『急激の死』の功徳のつづきに高級霊ヴェッテリニに次のように説いている。 ―

  「この急激の死が自己の犠牲行為(例えば他を救助せんがための死)に原因するというが如き場合は、彼のヒロイズムまたは自己犠牲の功徳は、機械的なショックの上に追加され、その霊魂は進化の階梯をたしかに大踏歩でのぼるのである」

  「例えば他を救助せんが為の死」というのは、水に溺れんとする人を救けるために、水にとびこんで其の人をたすけたが、自分は力つきて大波にさらわれて急激の死を招いた場合の如きである。

  しかし水に溺れる人を救けることだけではない、火災の中で焼死せんとする人を救け出しながら、自分が煙にまかれて窒息死した場合など色々あるし、もっと精神的な指導で人を救ける場合の犠牲となって死を招く場合、例えば、Aの地で人類光明化の講演会があり、その後深夜まで、人類救済の方法手段等について幹部会があり、しかもその翌日は数十里を離れた市で光明拡大中央委員会があるので、今夜のうちにその市に到着しなければならないというので、午前四時、自動車で国道をひたはしりに走っていると、あまり疲れているのと、道が単調なので眠くなってウトウトとした瞬間、向こうから来るダンプカーに正面衝突して彼は即死したというような〃急激の死〃も往々にしてないとは言われないのである。

 こんな場合、『彼は生長の家をやっているのに、どうしてそんな気の毒な惨事んい遭うのか』という質問をせられることがないとはいえないが、それは彼の熱心な人類救済の努力を神が嘉(よみ)し給うて、特に霊魂を急激に浄化し、今後の霊魂の進化が一層速やかになるように摂理の手が特に霊界に速やかに引きとり給うて、しばらく霊界にて彼の霊魂が休養し、こんな場合は普通よりも速やかに、もっと人類光明化に適する位置に彼を生まれ代らせて下さることになっているのである。

 〃死〃は無いのである。霊魂の進化だけが、人間出生の最高の目的なのである。

  『白鳩』誌 創刊500号記念 昭和51年4月号箴言




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教えてください。 (925)

日時:2011年05月02日 (月) 04時24分
名前:さくらふぶき


童子様
ありがとうございます。霊的な因縁のお話は、現象的に見るととても悲惨な事件が、霊的に見たときにはそこに救いの手が述べられていることが分り、私は、ゲゲ様と違って、むしろ非常に安心しました。現象的に見ているだけでは、とても怖くて救いがないです。K女があれほどに白鳩誌を売って愛行をしても、なお不完全さが残り、そういう末路になると思うと、修行の難しさに到底ついて行けない思いがしますが、実はK女が、むしろ霊的に救われて、浄化された姿で歓喜のうちに旅立たれたと知ることで、本当に救われた気持ちになります。

人類光明化に熱心で、深夜に車でひた走っていて、ついうとうととして、ダンプカーに衝突という事件も、ありました。お話を聞き嬉しく思いました。

ところで、私は時々ニュースなどの事件、あるいは戦前の通州事件などで非常に陰惨で、被害者がとても苦しんで亡くなられたような事件を聞くと、どうしてそこまで被害者が苦しむ必要があるのかがどうしても疑問に感じられます。いくらどんな運命もその人の魂が許容しない運命はないといわれても、やはり疑問に感じずにはおれません。この世の生に執着してなかなかスムーズに霊界に移行できない霊は断末魔の苦しみで気絶するといわれますが、それは神が摂理により、ある程度以上の苦しみを人間に味合わせることを制限されるからと聞きましたが、虐殺される人間の苦しみは、その断末魔の苦しみよりもまだ軽いのでしょうか。

なぜ世の中にそれほど悲惨な死に方があるのかが、どうしても疑問です。なぜそこに神の愛が、救いがみえないのでしょうか。流産児なども、ほんとにひどい死に方だと思います。そこまでされる運命というのは、ひどすぎる気がしますが、どうしてでしょうか。



さくらふぶき様へNEW (1027)

日時:2011年05月07日 (土) 14時28分
名前:山下一臣

合掌、ありがとうございます。

 貴方さまがお感じになられた疑問点に関しては、私も同じであります。また、同時に私にはより大きな、以前から考えていた人間の運命に関する疑問点があるのです。それは、アメリカの西部開拓史は自由の天地を求めてアメリカに渡った欧州人の開拓者としての旺盛なフロンティア精神そのものであると普通の人は賞賛の拍手を送るのですが、その西部開拓の歴史は、アメリカ大陸の原住民の大量虐殺を伴ったものでした。そこで私が感じた疑問点は、西欧白人種はどうして原住民と調和して西部開拓しなかったのか? 一方的に原住民の土地を略奪して抵抗するインデアンたちをスポーツ競技でもするように鉄砲で大量虐殺したのか?そのようなある意味極めて強い残忍性を持つ 彼等、白人種は何故、地球という星に生まれ存在するようになったのか? これが私の長年の大きな疑問点であったのです。

しかし、この疑問点も『生命の實相』を繰り返し読み、思索を続けるうちに曙光が見えてきました。今回の貴方さまの童子さまへのご質問を読んでこの事を思い出しました。

 ところで、さくらふぶき様へのお答えは、本来の筋としては童子様からでございますが、私も同じ疑問点を持ち、且つ上記の如き西欧白人種のことについての思索もありましたので、童子様より先に私なりの思索結果をさくらふぶき様にご覧頂き、その上で童子様から的確なお答えを出来れば頂きたいと思います。このような失礼をお許しいただきまして以下、私の考えを書かせていただきます。

 まず、さくらふぶき様のご質問の要点を再掲させていただきますと、

<<いくらどんな運命もその人の魂が許容しない運命はないといわれても、やはり疑問に感じずにはおれません。・・・虐殺される人間の苦しみは、その断末魔の苦しみよりもまだ軽いのでしょうか。なぜ世の中にそれほど悲惨な死に方があるのかが、どうしても疑問です。なぜそこに神の愛が、救いがみえないのでしょうか。流産児なども、ほんとにひどい死に方だと思います。そこまでされる運命というのは、ひどすぎる気がしますが、どうしてでしょうか。>>

 私がこのご質問を読んで、最初に頭に浮かんできたのは、
『生命の實相』第10巻霊界篇下巻(P.38)の次の章句でありました。即ち、――

<< わしは少しも霊界の秘密についてはお前に洩らすことはできない。またどんな霊でも人間には霊界の秘密をもらすものではないのだ。また人間に話してやっても霊界の秘密を理解するものではないのだ。人間の頭脳ではその神秘はわかるものではないのだ。>>

貴方さまや私が感じた地上の常識から見た難解な矛盾と疑問点は、実は、「生と死に関する霊界の秘密」に属する事柄であり、然るがゆえにこそ三次元地上世界の肉体「人間の頭脳ではわかるものではない」のであります。開祖・谷口雅春先生はこの「霊界の秘密を『無』の関門を超えられた上での大悟徹底による直覚認識で理会され、また最高級の霊界からの啓示をいただかれ、『生命の實相』やその他の御著書の中でその片鱗を説かれております。今回の御質問に関するその一部分と思われるところを引用させていただきますと、――

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<< 心の法則も自然の法則も生命のすべての分野に於いて「公正の原理」又は「償いの原理」が働いている事を明瞭に証明しているのであります。・・・「心の法則」によって起こる原因に対する結果は、・・・完全であります。・・・心の法則はあらゆる場合に於いて完全に公正の応報を与え、自然に各人の道徳的進化を導いて行くようにするのであって、これを因果応報というのであって神が罰を与えるのではないのであります。これを宗教的用語で述べれば、神は・・・法則としてあらわれて、法則に適った場合にはこうなる、法則に背いた場合にはこうなると自然に悟って、自己開発的に人間の自覚意識を高めようとしていられるのであります。 心の法則がその法則を破るものに苦しみを起こす働きをしないとすれば、その人は誤った道に行くこと(進化に逆行すること)が免疫性になって誤った道を進むがままに何時までも放置されることになるでありましょう。その結果は人類は宇宙の進化の法則に逆行し、人類は絶滅の危機に瀕(ひん)するでありましょう。ここに心の法則を教える者が出現して、法則を正しく用うる道を教え人類を絶滅から救う必要があるのであります。・・・

業の流転と云うことから考えるならば法則に背いた為の業の刑罰は、法則に背くに至らしめた潜在意識内の欲望の惰力(業因)が根こそぎ引き抜かれて意識外に除かれた時に支払い済みとなるのであります。>>(『別冊・真理<正死を越える道>P.39−43』)



<<「償いの法則」は全宇宙に行なわれているけれども、本能水準のものよりは人間の場合の方が、高度に顕われています。・・・人間の場合には精神的道徳的法則に背く場合には、「償いの法則」が要求する代償を支払わなければならないようになっています。キリストはたとえをもって「最後の一銭までも支払わなければならない」と教えています。この刑罰は、人格神が課するのではないのであります。これは釈尊の説教である業報の法則にも一致するのであって、誤ることなく、容赦することのない法則によって償いが要求されるのであります。・・・高い世界の「償いの法則」は負債の支払いを要求するのであります。負債は魂の内にあるのであって、自分の魂がそれを支払わなければならないのであります。・・・それは体験によって魂がその前非を悟ると云う形式で支払わなければならないのであります。人間の法則や自然の法則の前ではそうは考えられないかも知れませんが、**(確認後掲載)者の習慣や行為の性質からして、如何なる形式によるとも負債を生じた「生まれ更り」の世代中には到底完全には負債を支払う事はできないのであるから、不足の分は未来の「生まれ更り」の生涯において支払わなければならないのであります。

この不足分の「支払い」は自分勝手な宣告に従ってするのでもなければ、特殊な科料を支払うのでもない、それは自己の心と意識とが他人の権利に敏感になり、之を尊重するようになり、その結果己の欲せざる所を他に施さざる底の心境に達する如き経験によって支払われるのであります。>>(『別冊・真理<正死を越える道>P.70−74』)



<< 因果応報と云っても、ある意味から云えば、魂の教育と名付けてもよいのであります。>>(『別冊・真理<正死を越える道>P.75−77)



<< 人間の生涯は摂理――「不可知の手」――によって定められている。恒星と遊星との運行の影響の下に一定の妊娠を遂げ、出産し、そして一定の時日に死するということは摂理の手できめられている。が、運命は修正を受くるのである。審判階級のスピリットが干渉するのはここである。もし運命の修正によって個体霊魂の進化がたすけられるならば、星の運行によってあらかじめ定められたる死の時期を早めたり遅らせたりするのである。>>(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻P.101−102)



<<地上で果たすべき最後の過程を卒業した霊魂は高級天体の世界に移住して、もう地球上に帰還することはない。その卒業移住と引き替えに、他の、地球よりも、もっと低い階級の天体に住んでいた未発達の多くの霊魂が、恰も中学卒業の子供が高校へ入学して来るように、地球に移住して来たので
ある・・・>>(『神真理を告げ給う』P.65−66)



<<・・・個人の運命は国家や民族の運命と混じり合っているのである。さらにくわしく言えば地上の人類全体の運命および地球と他の天体との関係における運命とも混じり合っているのである。そして地球やその他の天体は、人間の霊魂がそこにおいて修行し、向上し、内在無限の神性をより多く発揮するための「場」だということができるのである。したがって、肉体をもっている人間の運命は、肉体を脱却して、よりいっそう進化向上せる霊魂の指導を受けて、種々に導かれ、修正せられつつあるのである。われわれはこれらの関係を無視して人間の運命を論ずることはできない。人間は決して肉体存続期間だけの存在でもなければ、その生活圏が地球上だけに関係しているのでもない。あらゆる天体はわれわれの生活の「場」であり、進化向上の「場」として造られたものであって、天体の運命と、個人の運命とは密接に関係せしめられているのである。われわれがここで言う「運命」とは運がよくて金が儲かるとか、運が悪くて失敗するとかそのような小さな問題を言うのではない。もっと人類全体と、そして宇宙全体とに、関連せるところの大いなる運命である。・・・>>(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻・はしがきP.2)



<<「理解せんと試みることは進化することである。」>>(『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻・P.97)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


私たちはどうしても、目の前にある被害者といわれる“悲惨な死に方をした人たち”の方面に目を注ぎますが、一方その様な残忍な方法で虐殺した加害者の方には被害者に対するほどには注意を向けないのであります。新聞テレビの報道でも<何故あの人、或は、あの人たち“だけ”が悲惨な死に方、残忍な殺され方を“しなければならなかったのか?”>とだけを強調しがちであります。私達の心すべきことは、――

@ 童子様が引用されました開祖・谷口雅春先生の今回の御文章の一番最後の御言葉、< 〃死〃は無いのである。霊魂の進化だけが、人間出生の最高の目的なのである。>であります。

A 神様(創造神)は、完全な人間を創造された。そして、無限生命と完全な自由意志を与えられた。運命選択の特権であります。

B それと同時に神様は、どの人間もみな公平・公正に進化(實相顕現)してゆくために、「心の法則=原因結果の因果律=因果応報の償いの法則」として現れられ、無限の期間の全体として、原因結果のバランスをとっておられるのであります。無限の期間の中の“今世・今生”という無限を小さく区切った部分だけを見ると、<悲惨・残忍・何ゆえに自分だけが>と言う疑問が起こって参りますが、霊魂進化の無限時間と言う方面からみますと、完全な公平・公正の原理法則が働いているということであります。現象世界では「動反動の法則」の片面しか観ることができないのであります。

C 具体的な一つの事例として考えてみます。群雄割拠時代の支那の刑罰のひとつで最も残忍な刑として“車裂きの刑”というのがあります。一人の人間の首・左右の手・左右の脚に別々のロープをかけてしっかりと結んでそれぞれのロープを二頭立ての馬車で別方向へ全速力で疾走させて、五体をバラバラに引きちぎって殺す極めて残虐残忍な刑罰です。この残忍な刑を行うことを決め実行させた加害者の人間には、この公正なる償いの法則は、今生及び未来世に於いてどのような因果応報の具体的形の彼の人生として展開して行くかという事に注目しなければならないのであります。

この観点が近代文明社会の現代人には抜けているのです。だから、被害者側の今生に起こった因果律の働きによる悲惨な死に方だけではではなく、加害者側の因果律についても公平なる判断をなさねばならないと思います。そうでなければ、この世から悲惨な出来事は無くならないとおもいます。“事件から学ぶ”という“魂の学習”の意味がなさないのであります。

D この様な<宇宙を貫いている法則>を正しく理解し、そのうえで<四無量心、感謝報恩、愛と慈悲、先祖供養>をモットーにして、お日さまのような明るい生活(日時計生活)と具体的人生目標に向かっての神の子無限力発揮の生活を実践して行く。この価値観が常識化して行くことを目指すことが宗教家の最大の役割だと思います。その結果として次第に残忍残虐な出来事が無くなっていくのです。謙虚な心と探究心をもって「生と死に関する霊界の神秘」に穿ち行って善なる方向へ活用していく求道心が大切と思います。(この副次的効果の一つが地球環境回復だと考えればよいのであります。)

E 現代の宗教で、このような神秘極まりない「霊界の神秘」を日常言葉で判るように説かれているのは開祖・谷口雅春先生の『御教え』だけであります。この「霊界の神秘」を信じて生活する事こそが世界平和・・宇宙平和への確かな究極の方法(手立て)だと私は信じております。 合掌

平成23年5月7日 再拝




ご教示ありがとうございます。NEW (1034)

日時:2011年05月08日 (日) 02時03分
名前:さくらふぶき

山下一臣様、
私の質問に、大変詳しく引用、ご教示下さり、ありがとうございます。まだ漠然とながら、確かに霊界の神秘は、肉体人間には、あまり詳細に述べることは禁じられているのだと読んだこともあり、深い摂理の御手によって、悲惨に見える運命すらも、それが救いの道程であることが、納得できるような気がしてきました。
私も、被害者の悲惨な死に方を聞くにつけ、その被害者がそのような運命になるには、過去世において、余程の罪業を作ったということであろうと思うと、誰でもみな過去においては低級霊の時期を経験しているはずであり、真理を知らないで犯す罪の恐ろしさに、身震いするような思いがありました。そして、そのような低級の時期にたまたま悪因を造るか造らないですむかは、これもめぐり合わせと考えると、ほんとに公正公平と言えるのだろうかなどとも考えたりしました。

しかし、おそらくそういう考えも、この現象に囚われた人間智の浅はかさであり、もっと宇宙の神秘は深遠であろうということが、山下様の、引用された文章から感じることができました。
そして、支那の刑罰のおはなしがありましたが、それで思い出すのが、「ねずきちのひとりごと」というブログがありますが、そのブログの記事で、奉天駅前事件というのを読んだことがあります。その話は、ロシア人によって、敗戦後の満州から引き上げようとする日本人の一団が、いろいろと難題をふっかけられていじめられる話ですが、その中で、ロシア人が日本人の一団に、職業軍人の家族がいれば名乗り出るように言うのですが、ある婦人が黙っていればわからないのに、わざわざ名乗りでて殺されたのですが、そのころされかたが、まさにその刑罰のようなやり方でした。そして、その婦人は、職業軍人の家族の誇りを示すのが喜びであるかのように名乗りでて毅然とした態度で殺されるのですが、どう考えても、そんなロシア人にその誇りが通じるとも思えず、名乗りでていく意味があるようには思えなかったのですが、もし山下様のおっしゃるような過去世の因縁を浄化する目的を霊魂の意志として秘めているのなら、その婦人が、そのような悲惨な殺され方をするのを霊魂自身が望み、また誇りを持って死ぬというその死に際の潔さも、その霊魂の浄化の意志を強く示しているのかと思いました。

そのブログ記事を読んだ当時は、あまりの悲惨な事件はほんとに読んだ後味が悪く、読まなければよかったと思ったりしましたが、山下様の引用された文章は、更にそうした奥に、その運命を許容できる霊魂自身の強さの段階もあるような気がしました。ただまだ、そこまで行かない霊魂が悲惨な死を遂げる場合もあるのではとか思ったりもしますが、多分やはり全ての運命は、その霊魂が許容するものであることは、雅春先生がそのように書かれているのであるから、そうなのだと思います。どうしても、人間智で判断してしまうのがこの世の人間ですが、救いの御手はもっと奥深いのでしょうね。

まだまだ完全に理解したとは言えませんが、因果の法則が人間のためにあり、実相を開顕する為のものだというのは、少し納得できた気がします。ありがとうございました。





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