| [1578] インターネット道場ーーー「キリストの十字架について」 |
- 信徒連合 - 2015年12月26日 (土) 10時58分
インターネット情報ーーー
キリストの十字架について
(『神癒への道』P.145−155)
時間空間があらわれているので、その中に「因」があり「果」があり、是が因縁因果の世界であって、そこにいろいろなものが起こっているかのごとく現れているのですけれども、併し、時間的つながりもなく、空間的ひろがりもないのだとしたならば、そしたら、迷いということもなければ或いは因縁因果のくるしみということもないのであって、何もないのです。唯(ただ)、ここに形もなければ、(形があるということは、空間があるということである。)空間もないし、時間もない。唯、そこに仮に斯ういう時間空間という縦横の枠をつくり出して、その面(おもて)に絵を書くかのように生命が自己表現をしているのであります。
永遠不滅の無時間の、久遠の<いのち>が、そこに自己を表現しているのであります。
それを説いたのがイエス・キリストであって、「神の国は汝の内にあるのだ」というイエスの言葉は、すべての空間的時間的なあらゆるものを吾々は自己の内に握っているという意味であります。
イエスが「十字架を負いて我に従え」と言ったのも、要するに一切の時間的空間的な持ち物を抹殺して時間的空間的なるものの本源に立ち返れ、そこから時間があらわれ、空間が出現するところの縦横十字の交叉点上に坐せといったわけであります。
そこで今まで時間の流れがあり、空間的ひろがりがあると思っておった間は、人間は時間的空間的存在に執持して居りますから、そこからどういう風にやらなければ仏になれないとか、神の子になれないとか、天国に行けないとかいうことになるのでありますけれども、もう既に自分は時間空間を絶した十字交叉の点に存在するところのものであるということが分かりますと、<ここ>にそのまま今茲(ここ)に神の国があるということが解るのであります。
時間的空間的なものに執持しないことがキリストの言った「汝の持てる全てのものを売りてこれを貧しき者に施せ」ということに当たるのであります。そうするとそこにそのまま神の国があるのであります。大工も収税吏も、漁師も、遊女も悉くそのままで神の子であるから、そのまま神の国に住んでいるということになります。
斯ういう風に吾々が生命の端的を把握いたしますと、ここに此のまま吾々はいっさいの空間を握り一切の時間を握っている自分を発見するのであります。全く吾々は素晴らしい存在であります。自分の数寸の掌のうえに大宇宙を握っている。誰でも自分の内に時間空間の源があって、全時間全空間をば、時間空間交叉の一点に(否一点もあらざる無字の中に)握っているのが吾々なのであります。まことにも素晴らしいものであります。
ですから吾々個々人は悉く宇宙の中心であり、各々全知全能であって、何でもできないことなどはけっしてないのであります。そして吾々はこの十字の中心から心の波を起こして、心に描けば富も現れて来るし、不幸が来ると観ずれば、不幸も現れて来るのであります。そのためのスクリーン(銀幕)として生命が仮につくったものが時間空間であります。
その時間空間に於いて、自分の心が描いたものを何でも映画のように映し出すのであります。だから自分の思う通りに、貧乏であろうが、幸福であろうが、不幸であろうが、どんなものでも現わすことができるのであります。併しながら現わしたものは、自分が現わしたものだから、直ぐそれを変更しようと思えば、心の振動(念の波動)を変えれば直ぐまた別の姿にかわるわけでありますから、どんな不幸が顕われていても、そんなに歎(なげ)くことはない。自分の心の波の変化によって、自由にフィルムの掛けかえが出来るのでありますから。
キリスト出現以前、洗礼のヨハネまでは此の身を時間空間の流れに置いて、時間空間上の色々のものを実存として、その実存する過去の罪を滅する為にいろいろと苦行をしたのであります。いろいろと苦行をしたけれども、実際苦行に依っては人間はすくわれないのであります。
丁度アキレスと亀の譬(たとえ)見たいなもので追い付きようがないのであります。アキレスが亀に追いつく、つまり追いつくというのは是だけの罪をあるとしてそれの償いをする。ところがここまで追いついたと思った時に亀はもう一寸余計にあるいている、というなは折角今行(ぎょう)をして過去の罪を消したとしても、今日は又飯を食ったり、或いは呼吸によってバイ菌を吸って殺したり、誤って蟻を踏み殺したり、一寸位はその罪の方が前進しているから、アキレスが有限の空間を観て走っている限り亀に追いつけないと同様に、どれだけ毎日罪を消す苦行をしても、やれやれここまで来たと思ったら又犯した罪は常に前進しているのであります。
だから時間空間の流れに添うて苦行をやって、その苦行に依って罪を消そうと思っても中々消えるものではないのです。ですから吾々はそういう時間空間のない世界に入る、一ぺん自分の肉体を十字架につけ(「十字架を負うて我に従え」キリスト)て、時間空間の由(よ)ってもって生ずる本源の一点に帰っていった時、初めてそのままに罪なき世界に入ることが出来るのであります。
こういう時間空間なき世界へ入らない限り、アキレスが亀に追いつきたいと思っていくら走っても、どんなに亀が遅くても亀は一寸でもアキレスよりも前進していて追いつけないと同様に、如何に苦行によって罪を消しても、罪の方は毎日前進して行って罪の消えようがないのであります。
そこで吾々は観方を変えて、そして罪なき世界に飛び込むのであります。それを吾々は十字架と一つになるといい、楽行道だといいます。キリストは「我が軛(くびき)は易(やす)く、荷は軽ければなり」といわれました。洗礼のヨハネの軛(くびき)は苦行でありましたから、これは中々辛い重い軛でありました。軛というのは頸(くび)にかけてある木であります。牛が荷物を引っ張るのに頸のところに横に木がかけてある“あれ”であります。あれに荷物を括(くく)りつけて引っ張るのです。そこでヨハネの道は苦行であるから其の軛(くびき)は辛いけれども自分の軛は軽いのだとイエスは被仰(おっしゃ)ったのであります。
何も難しいことはない。アキレスのように空間的に寸断せられる世界に亀を追っかけて走ることは要らないのであって、初めから亀のとどかない救われの山頂に飛行機(キリストの十字架)の願船にのって到達するのであります。
初めから罪がないのだという世界にキリストの恩寵(おんちょう)によって入るのでありますから、一寸も苦しいことはない――是がイエス・キリストの教えなのであります。
けれども、キリスト教をそういう風に説いた人は少ないのです。生長の家ではそういう風に解釈しているのであります。『ヨハネ伝』第四章三十五にも、麦畑の譬話があるのでありますが、(はや黄ばみて刈り入れ時になれり)ということをイエスがいっているのですが、それはまだ肉眼でみれば四月頃の青い麦畑であって、まだ実っていないで刈り入れ時になっていない。「汝らは刈り入れ時になるのに四カ月かかる、斯ういう風に言っているけれども、心の目を開けて畑を見よ、既に刈り入れ時になっている」斯ういう風に言っていられるのであります。これは麦畑をもって人間に喩(たと)えたのであります。
すべての人間はまだ青いのでこれから苦行してそれから茶色になって黄金色に清められてはじめて一人前になって刈り入れされるのかと思うと決してそうではない。「もう既に熟している」のだ。人間は既に神の子である。既に仏の子である。初めから神の子でないもの、仏の子でないものは一人もない。時間空間を超えたところの存在、それが自分なんだ、斯ういうわけなのであります。
それが分かれば皆さんは全世界を掌(てのひら)の上に載せてそれを自由に欣翻(きんぽん)することが出来るのであります。尤もそんなことは分かっても分からなくても神の子なのでありますけれども、それに気が着かねば、その實相があらわれませぬ。
吾々は物質にあらず肉体にあらず霊的存在であると自覚が生まれ更ったとき、不思議な偉大な力があらわれて来るのであります。
若し人間が単なる肉体であったら吾々人間は終始一貫した一個の人格の持続感というものが有り得ないのであります。肉体人間は最初は白墨(はくぼく)の粉末ほどの小さな卵であったのでありますが、その卵が今こんな大きさになっているのであります。最初はその卵もいなかった。卵もいないし卵の成分もいなかった。全然異(ちが)うものが集まって斯ういう肉体になっている。一微粒であった卵の時の成分、赤ん坊の肉体の時の成分、そんなものは大人になった吾等の肉体には少しも残っていない。そうすると卵の時代の肉体と今の肉体とは全然違う。それを矢張り終始一貫した同じ人間としての人格の持続を感ずることが出来るというのは何故であるかというと、自分というものは肉体ではないからであります。
肉体そのものが人間だったら、生まれた時とは全然違う成分になっている今、自分はあの赤ん坊が成長したものだということは出来ないのであります。そうすると何年か前の肉体と今の肉体とは成分が変わっておるから肉体的見地からいうと何年か前にしたことはいまの自分の責任でないということになります。肉体の方からいえば別人であって、五年前に戦争を起こしたが、その肉体は今おらぬから私は知らぬといってもいいということにもなります。今大いに借金でもして置いて、「お前に貸したんじゃないか」「いや、私は借りた覚えはない。そのお前に借金した肉体は汗になったり小便になったり、排便になったりしてもう無くなっているから今の自分には全然責任がない」などということになります。
ところがそこに責任を生ずるのは、人間というものは肉体じゃないのであって時間空間を超えたところの存在であるからであります。人間の肉体はその時間空間を超えた中心点から放射して現わしているところの一つの放射投影であります。
本当の人間は『甘露の法雨』に「肉体の奥に霊妙極まりなき存在あり」と書かれている肉体ならざる人間であります。これが「本当の人間」なのであります。人間を肉体でないと観ること、これがメタフィジカル・ヒーリングの最初の根元的基礎自覚になるのであります。
或る病院の入院患者が『生命の實相』を読んでも治らないと手『生命の實相』の真理を疑って来た人がありますが、其の人がその病院を退院せずに自己を肉体人間として観、取扱っている限り、その人は「生命の實相」たる「無肉体の人間」を自覚していないのでありますから、「生命の實相」を自覚しても治らぬということは言えないので、読むには読んでも自覚が出来ない。真理が頭の中で空転しているに過ぎないのであります。
真理が頭の中で空転しないで生命の自覚となるためには、この肉体をば「自分自身」と見誤るところの五官の目を瞑(と)じて、自分の「生命の實相」の霊妙きわまりなき姿を内観した時に、初めて自分が時間空間を超えたところの霊的実在であるということが分かるのであります。
皆さんに神想観をお勧めするのもそのためであります。神想観のやり方は講習会では直接お教えしておりますし、以前には『生命の實相』第4巻(頭注版・第8巻)及び谷口清超との共著『人間救いの原理』の第一篇49頁に詳記してありますから御覧下さい。
人間は自由自在にならぬと幸福になれない。人間の自由自在の本当の働きというものは時間空間を超えた世界へ入って行った時に初めて本当の働きが出来るのであります。
宮本武蔵の所謂(いわゆ)る「無構えの構え」であります。「無構えの構え」というと、結局「現象的構え」じゃないのであって、時間空間十字交叉のあの中心の「今・此処」の一点へ帰っていって、そしてどこへも自由に出られる姿になっているのであります。これこそ真に「無構えの構え」であって、その時には相手がどこから突きこんで来ても自由に受けることが出来るのであります。これは何も剣道のことをいっているのではありません。
すべて吾々は、一瞬一瞬、無時間、無空間の世界へ還元して行くことによって、そこからのみ自由自在のはたらきが出来てくるのであります。そのために吾々は常に神想観によって、吾々のいのちの本源へ立ち戻るようにしなければなりません。そこから酌(く)み出して来てのみ、吾々は永遠のいのちを今此処に受けることが出来るのであります。
そこでキリストは、「吾はいのちの泉である、本源である。われに汲む者は永遠に渇(かわ)かず、死すとも死せず」などということを被仰ったのであります。「吾に汲む者は永遠に渇かず」というのは、時間的流れ、空間のひろがりの中に生命を求めているだけでは渇くとこが来る。それは有限の世界であるからであります。
これに反して、時間空間を超えた中心・その本源に<いのち>の水を酌んだ時に、吾々は永遠に死なないということになるのであります。死なないといったら肉体が死なないことだと思ったりして間違える人があるのですけれども、決してそうではないのであります。あの人は『生命の實相』を読み、神想観をしていたけれどもやはり死んだなどと言って反駁(はんばく)なさる方がありますが、吾々が人間不死を説くのは、一度肉体を十字架につけて後の復活を云っているのであります。
「肉体というものは初めからないものだ」と知ることが肉体を十字架につけることです。肉体どころでない、空間もない時間もないのです。その悟りの後に、キリストの復活があるのであります。自分がキリストと同じものになるのであります。キリストが「我れ行きて汝らに来るなり」といわれた。その滅びないところのキリストが、自分の中に宿っていて、それが本当の自分であるとわかるのであります。
キリストというのは二千年程前にユダヤに出て来た肉体の人間かと思ったら単にそうではないのであって、吾々の中(うち)に「今」生きていられるのであります。キリストは十字架につけて肉体を抹殺し、肉体の無を実証した時に生命として復活し、時間空間を支配する権威をえたのであります。
「十字架を負う」ということは肉体の抹殺であると共に、時間空間タテ・ヨコ十字を自己の掌中に一つに握っていることをあらわしております。だから黙示録にあらわれたる白髪(はくはつ)「久遠のキリスト」は「吾れはアルファなりオメガなり。生と死との鍵を持てり」と言っております。
吾々がキリストと同じ自覚に入るとき吾々の中にキリストがあるのであり、時間空間を超えながら、しかも時間空間を一つに纏(まと)めて握っているところのその不思議ないのちの力が把握されるのであります。
吾々は「吾に宿るところのキリスト」を自覚しなければなりません。その時はじめて「吾に汲むものは永遠に死なない」という真理を自己の生命として、体験として自覚する事が出来るのであります。
キリストがこんな話をすると「そんな馬鹿な事はない」と言って当時のユダヤ人が怒ったのであります。現代の日本人にも「そんな馬鹿なことはない」と云って反駁(はんばく)する人もありましょう。その時、キリストは「我はアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるものなり」と宣言せられました。既に三十三歳の肉体年齢のイエスではないのです。時間空間以前の存在、従って「久遠不滅の自己」の宣言をなさったのです。病気が治るとか治らぬとかどころの騒ぎではないのであります。
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