| [137] インターネット道場ーーー感激的体験記 ・ 河田亮太郎先生 「ほとばしる生命」より・・・ |
- 信徒連合 - 2015年08月02日 (日) 00時52分
河田亮太郎先生
「ほとばしる生命」より
木田さん一家心中を救う
次の話は昭和35年頃ですから私が大阪府の講師会長の時ですが、教化部へ電話が掛って来ました。
木田音吉さん(仮名)という34歳の、これは名古屋の熱田神宮の近くの人です。この奥さんが、西宮か鳴尾で私の講演会の話を聞いておられたらしいのです。その時に私は「もしこの中でね、医者に捨てられたり、あるいは生活に迷っている人があったら、一遍生長の家にいらっしゃい。そしたらそういう人には、本当に深切丁寧に御指導申し上げます。そして必ず立派な元の状態になって頂きますから、旅費も金も要りません」と言うような事を私が言ったらしいのです。
「私は西宮の皆瀬川の木田ですが、先生に来て頂いて、是非助けて下さい」と言って、その奥さんが電話の向こうで泣かれるんです。それで私は、「よう分りました。じゃ明日行ってあげますわ」と言って、向うの言われた住所を控えて次の日に行きました。大阪から西宮まで20分ほどで行けますから、西宮の東口に降りて、言われる通りの所に行ったんですが。木田さんの家がないんです。おかしいなぁと思って、近所を訪ねても「そんな家、知らん」と言うし、交番に行っても「そんな家知らん」と言うから、今度は役所に行ったら「そんな住民おらん」と言われてしまいました。それでも私は、その辺を30分ほどウロウロしたけど判りません。
私も辛抱切らして「これは駄目だ、もう帰りましょう」と決めて皆瀬川の堤防の沿ってぁ付いていました。そしたら堤防の下から上って来る御婦人に会って、その人とパッと顔を合わせたら向うから「あの貴方は河田さんと違いますか?」と聞かれて「そうです」とそこでようやく木田さんの奥さんに会えたわけです。 「貴女の家なんぼ探しても判らんから、私はもう帰ろうと思っていました」と言ったら、「ああそうですか」と言って連れて行かれた所が堤防の下の河原でした。その土手の際にトタンで囲った掘立小屋がありました。ここでは私がなんぼ探しても家が分らん筈でした。
「どうぞ、ここです」と案内されて入りましたら、厚いボール紙が下に敷いてあって、そこに5つ位の痩せてもう骨と皮のような子供さんが寝ていらっしゃる。その奥に旦那さんが寝ていらっしゃる。そして色々話をお聞きしたら、その奥さんが、「私は以前には、名古屋の熱田神宮の前で木田呉服店という大きな店を経営していて、店員と7人も使っていました。ところが一時和服が流行らなくなってお店の経営が旨くいかなくなって、景気も悪い時分ですから、とうとう店を畳んで、そして私たち親子3人は路頭に迷って流浪の旅に出て、流れ流れて西宮に来ました。そして西宮で廃品回収の拾い屋さんを始めたら、かなり収入があって生活出来たから、主人が自分でこの掘立小屋を建てたわけです」と言うのです。
ところが、ご主人が板釘を踏んだのが因(もと)で、右足に黴菌が入って足が立たなくなって仕事が出来ない。だから奥さんが子供を背負って、代わりに仕事をしていたんですが、ある日俄かに夕立が降って2人が頭からずぶ濡れになって、それで子供が風邪をひいて急性肺炎になったけれども、金がないから医者に行きたくてもいけない、薬も変えない状態だった。
もう1週間も10日も飲まず食わずだから、その坊ちゃんが骨と皮に痩せていらっしゃる。そして私が行った時に奥さんが言われるのに、「先生に来て頂いたのは、この子を良くして下さいとか、我々をどうして下さいと言う、お頼みはしません」と言うわけです。「そんならどうして私を呼んだんですか?」と聞いたら、「一遍私らの本当の気持を聞いて貰いたい。もうこの子は死ぬかも知れないけど、せめてその前に、温かいご飯の一口でも食べさせて死なせたい。それが出来たら、この子供が死んだ後で私達夫婦は自殺する」と言うのです。
そしたらその主人が言うのです。「先生、私は世の中の人を恨んで恨んで恨み切って死んでやります。親戚の連中は、もう私の方の商売が旨く行っている間は、こちらが忙しいのに、子供を連れて来て長いこと遊んで行くんです。ところが商売が左前になって金の無心を言ったら、1回や2回は貸してくれたけれども、3回は貸してくれない。こうなって来たら親戚だって他人以上に水臭くて冷たいから、もう本当に親戚の連中を呪い殺して、死んでからも私は化けてでも出てやろうと思っている」と言うのです。 「そのような、恐ろしいことは言いなさんな」と私は旦那さんを宥(なだ)めて、とにかく子供さんが気になるから奥さんに聞いたら、3人とも今日まで12日も御飯一つも食べてないと言うのです。
「あぁそうですか。それだけですか?」と言ったら「そうです」と。「そんなら奥さん待っとりなさいよ」と言って私は、近くの一膳飯屋に飛び込んで、大盛り御飯と、粕汁と、他に豆腐の入ったお菜を買って来ました。それが全部合わせて60円程でしたけれども、貰って帰りました。
「奥さん、貴女の言われる通りに、おまんまと粕汁の温かいのを買って来て上げたから、これあなたに差し上げます。だからお坊ちゃんに譬(たと)え一口でも食べさせて、そしてその残りを、貴方達2人でお上がりなさい。そしてお坊ちゃんが亡くなったら、その後あんた方自殺すると言うんやから、自殺しなさい。そしたら私は、直ぐに市役所に報告してから、無縁仏のお寺で御供養して上げるから、後のことは心配しなさんな」そしたら奥さんが「本当に有難うございます。そんなご深切にして頂いて何ともお礼のしようがありません」と言って、早速に坊ちゃんに食べさせようとしても、もう熱が出てるし12日間飲まず食わずですから、本当に痩せて息しているだけでした。「奥さん、じゃ私が食べさせて上げましょう」と、こう言って私はその奥さんに色々生長の家の話をしたのでした。
南無阿弥陀仏の六字の名号
──奥さんも、前に私の話を聞かれたけれども、これから話すことを良く聞いて下さい。生長の家では「物質は本来ない」と言うけれども。それは物質を粗末にかなぐり捨てると言う事ではなくて、言わば全ての物質は仏の命、神の命の顕れであるから仏のもの、つまり仏物として全てのものを拝んで、これを感謝の気持を持って使用しなければならないのです。だから仏教でも「山川草木国土悉皆成仏」というでしょう。
このお米の一粒を考えても、貴女が単に「お米粒や」と思ったら、この坊ちゃんの口に入りません。けれどもこのお米粒一粒は、本当に尊い神の愛と生命の表われなんです。仏教ではお米一粒も阿弥陀如来の慈悲の表れであって、この中には南無阿弥陀仏の六字の名号が詰っているというんです。だから私がお子さんにお粥一口入れたらね、貴女はもう本当に腹の底の底から「南無阿弥陀仏!」と唱えなさい。そしたらお子さんは必ず食べて下さるよ──と、こう言って私は箸取って、お粥の一粒を食べさせました。
そしたら奥さんが「南無阿弥陀仏!」と手を合わせてほんまに声を震わせてジーッと祈っていらっしゃる。そしたら、私が子供さんの口を開けて食べさせましたら、一粒、そして二粒、三粒と、全部で14粒ほど食べたんです。その時の「南無阿弥陀仏」という名号は本当に奥さんの真実無二の心から出ている有難い感謝の言葉でした。それから私はスプーンで重湯を流し込んでやったら口を開けてスプーンに4杯も飲んだんです。
「それじゃ奥さん、後にまだこれだけ御飯が残っているから、ご夫婦でお分けしてお上がりになって下さい。私は明日又来て見て、もしあなた方が死んでいらしたらならば、後のことは私がして上げるから」と言って、私は帰って来ました。
そして明くる日、私が行って見たところが死ぬどころではなかったのです。本当に奥さんも元気になって「先生のお話聞いて自殺は思い直しました」と言うんです。「坊っちゃんはどないですか」と聞いたら、私が帰ってから奥さんが何かとして食べさせようと「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と祈りながら食べさせたら、お猪口に一杯ぐらいのご飯を食べて、そして粕汁もスプーンで5杯飲んだそうです。
そしたら不思議なるかな、子供さんの顔色が良くなって、それ見た時にご夫婦も死のうという気がなくなったと言うわけです。 「あぁそりゃ良かったねぇ!」と言って私は生長の家の話を段々と話して上げてのですが、初めはもう明日にも一家心中すると言うんですから詳しい教えの話は出来ませんでした。それからズーッと私は約1ヶ月ほど、毎日毎日、大阪教化部から西宮に通いました。
その内に親子3人とも元気になって、また拾い屋の商売もできると言って、喜んでいるという便りが来ました。それから約一年ほどしたら、その木田さんの親子が大阪教化部の私のところに訪ねて来たんです。初めは判らなかったですが、良く見たら「ああ、あの時の木田さんだ」と思い出した。そしたら「先生、あれから拾い屋を続けているうちに、段々良くなって来て、そして幾らかの余裕金が出来たから、これから私の郷里の熱田へ帰って先祖の墓参りをして、それから自分の身の振り方をそこで考える」というわけです。良く聞きましたら西宮から大阪まで電車の乗らず2日掛りで歩いて来たと言うのです。
だから私は「一寸待ちなさいや」と言って、大阪教化部の職員に「こうなんだから済まんけれどもね、餞別上げてくれんか」と言って、私は余りないから250円出して、それで教化部の職員から、そして教化部に講話を聞きにいらっしゃる人とか、そんな人に片っ端から頼んだんです。そしたら150円集まりました。「これをですね、私らの心からなる餞別として持って帰りなさい。これから歩いて名古屋まで帰ると言ったら大変だから今度は近鉄の電車に乗って帰りなさい」と言って渡した。そしたら「有難うございます」と言って、親子3人は帰られました。
ところが木田さんは、近鉄の電車に乗らないで、おこもさんしながら伊勢の宇治山田まで行ったそうです。そしたら伊勢では焼き芋をよう売っとるんです。その焼き芋店に行って話し付けて、150円の金を保証金として焼き芋を販売させて貰ったんです。やはりお商売していらっしゃったから、そこらが偉いんです。そしたら本当に良く売れて、それから店開いて焼き芋店を経営していらっしゃる──そういう礼状が来ていました。
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