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生長の家・開祖の『御教え』全相復活
を目指す掲示板

「生命の實相」第14巻 <和解の倫理>

われわれは天地一切のもの(実在)と和解しなければなりませんけれども、
虚説に対して和解してはならないのであります。
虚説に和解したら実相をくらますことになります。
虚説を容れることをもって寛容と和解の徳があるように思うのも間違いであります。
虚説を排撃すること、いよいよ明瞭であればあるほど真説は明らかに照り、
それに照らされて救われる人間もまた多いのであります。

<新掲示板の概要について>

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[1596] インターネット道場ーーー「病気の人間は本来存在しない」
信徒連合 - 2015年12月28日 (月) 07時33分




インターネット道場ーーー


病気の人間は本来存在しない


(『神癒への道』P.163−172)




人間は神の子であり、本来健康であり、円満完全であります。これを迷って観れば本当のすがたが見えないので病気に見えたり不幸に見えたりするのであります。それは曲がったレンズで物を見るように歪んで物を見て本当に歪んだものがあるように思うのであります。

例えば御飯なら御飯を食膳に盛ってある。肉眼で見たら同じ物質のように観えるかも知れないけれども、それが物質と見えるのは肉眼で見、口で味おうても五官の方式からその波動を感じて「物質」と見るのであります。味わいと云うものは物質の波を舌の先にあるところの感覚器官で感ずるわけであります。いづれも波動を感ずるのでありますが、その場合御飯を拝んで食べる人は御飯が美味しいのであります。

ところが御飯を拝んで食べない、不平でブツブツ言いながら食べる人には、同じ御飯でも美味しくないのであります。そうすると御飯に本来一定の味があるのではなくて、感じる心に従って物質は変化するのであります。これを物質だと思って食べる人は、御飯の味わい、つまり御飯から出すところの波が歪んで感じられ、本当のよき味わいに感ずることが出来ないのであります。

胃病などの人に食物を神の生命(いのち)の波として感謝して食べるように教えると胃病が治り、食物が美味しく感じられてまいります。或いは景色を見ましても、こちらの心が悲しみに覆われていますと、その景色は憂鬱なものに見えてまいります。これはリップス(美学者)などはこちらの感情の移入だと申しております。

ところが是は仏のいのち、神のいのちがここに現れているのだと思って見ると、どんな詰らなそうな景色でも、野辺にある一本の草花でも美しく見えてまいります。これは神のみわざ――尊いものだと思って、小さな一本の草の葉を見ても美しい<いのち>に充ちたすがたに感じられて来るのであります。

それが悟りの眼を以って観るということであります。これは食べ物や景色や草花を例にひいたのでありますが、人間を観る場合にも同じであります。此処に人間が居ってその人間が或る人には迷いの眼から見ると病気に見える。その反対に悟りの眼から見ると病気はないように見えるということになるのであります。

病気を現しているというのは要するに、本来明るい景色が憂鬱な感情から暗く見えるようなものであります。ただ人間の場合にはその生命波動が心の働きで直ぐに影響を受けますから客観的にも生理的に健不健の影響を具体的にあらわすのであります。

迷いの心の眼を以って観た場合に神の造り給うた自分の本当のすがたというものは覆われてしまって、或いは歪んでしまって、変にいびつに見えて不快な姿に現れて来る訳であります。それが悟りの眼を以って、五官のレンズをかけないで、生命と生命とがカチカチ触れる底の眼で直接ものの本当のすがたを観た時に、此の人間は完全な歪みなきところの人間に見える。すなわち「神の子」の本来健全なる姿が見えるのであります。

病人は本当は無いのです。神の理念に依って、理念そのものでつくられているのが人間であります。神の理念を言い換えると仏性とも神性とも申します。人間は仏性であり神性でありますから、未だかつて病気をしたこともなければ、これからも病気をすることもない、また未だかつて迷ったこともなければこれから迷うということもない。ですから、人間は今迷っているのでも、これから救われるのでもない。初めから神の理念であり、神の「いのちの波」でありますから、その儘(まま)で如来である。

「如来」というのは真如(しんにょ)――真如というのは「マコト」本物そのまま、、実在ですね――「如」はさながら、じつざいのその儘のそこから生まれて来た――<来生>してきたので、<如来>というのであります。


そこで宇宙の本物の、實相のさながらのその儘から、“ぽっかり”と出て来たところの神の理念が人間であり、如来である。吾々は初めから如来であって、初めから救われている。死んでから救われるというのではないのであって、今此の儘(まま)如来である訳であります。

それを一度物質の面から、物質をありとして固定化して見た場合に、その波が歪んだ波になって映って見えて来ます。迷いのレンズを通して屈折して歪んで感じられて来ます。自由自在の人間が物質に縛られた不自由な人間に見え、病気の如きすがたにも現れてくるのであります。

存在の姿を屈折させて歪んだものに見せるところのレンズに当るものは執着であるとか、煩悩であるとかいうものであります。執着といいますと、本来光明生命であり、本来形ないものを、形ある物質としてそれに捉われる状態であります。本来物質はないのに「ある」と思ってそれに捉われるから、執着があると腹が立ち怨む心が起こり、争う心が起こり、奪い合う心が起こり、斯くの如くしてそこに「心の歪みのレンズ」が造られます。そして執着の念を通して、「心の歪み」のレンズを通した眼を以って肉体をみるのですから、それが歪んだような恰好に見えるのは当然であります。

どうしてこんな執着が、迷いの心が生じたか。「ない」ものを「ある」と思って執着する心はどうしておこったかというと、忽然(こつねん)としてその念が起って、忽然として本来物質はないのにあると思ってふと迷ったのです。大乗起信論に「忽然念起(こつねんねんき)」とあります。「忽然」とは「ひょっこり」という意味であります。「ひょっこり」とは一体なんであるかというと「ひょっこり」というのは「本当はない」ことです。ないから説明が出来ないのであります。

だからひょっこり「念起」即ち迷いの念が起こったというのであります。本来“ない”ものにひっかかって本来、ない迷いがひょっこり起こるのでありますから説明のしょうがないのであります。

迷いそのものが本来<ない>のだから、従って<ひょっこり>も何も起こり様がないのに、それを説明しようと思うから、どうも詰まってしまって言いようがないようになるのです。

<実際あるもの>は神の「コトバ」即ち理念、仏性、神性、如来、神の子――そのまま本当に立派な形相があるのみであります。

實相を無形相だと思う人がありますが、實相は無相と見える内に無限形相を蔵しているのでありますから純粋に「無」ではありません。無形相のもの、「漂(ただよ)えるもの」なんか本来ないのであります。古事記に於ける「漂えるもの」というのは要するにすがたなきところのものです。すがたなきものは本来<ない>のであります。<あるもの>は唯「神のいのち」のみであります。

それをどうしてあると思ったかというと、“ひょっこり”そういう念が起こったのであります。その“ひょっこり”そんな念が何故起こったか、何故(なぜ)何故と問いつめられると、「無い」ものは説明のしようが<ない>ので、どうも困るのですけれども、例えばそれは目を瞑(つぶ)ったような状態であります。

本当の人間は如来である。如来でも目を瞑ったら見えないのであります。吾々も目明きで見えるのですけれども、目を瞑ったら見えない。目を瞑ったら盲(めくら)であるかというと盲でもないのであって、盲でないのは矢張りみえるのです。依然として見えるのですけれども、目を瞑って見えないと思っている。

これを法華経の中には「大通智勝如来は十劫(じっこう)の間、道場に座って悟らなかった。」とあります。大通智勝如来というのは無限年間前に悟りを開いた仏であって、大通力の智勝の如来でありますから、本来悟りを開いているのであります。それなのに十劫の間も坐禅しても悟らなかったというのですが、「何故差悟らないか」と無門関はその理由をとり上げて、「彼が悟らざるなり」と結論を下しているのであります。

「何故あいつが迷っているのであるか」「あれは彼が迷っているのだ。勝手に迷っているのだ。本当は仏のいのち、仏の理念ですから迷うという筈がないのですが、自分が勝手に迷っているのだ」と云う意味であります。

例えば自分は神様から立派な眼球を付けて貰っていて見えないということはないのですけれども、勝手に目を閉じているので見えないのだというだけであります。目は矢張り明るく見える目を有っているのに、ひょっこり瞼(まぶた)をもって蓋(ふた)しただけであります。ひょっこり瞼を蓋して自分自身が本来健康であり、円満完全であるその實相を自分勝手に見ないだけであって、悟りをひらいて心の眼をひらいて見れば、自分が既に健康で円満完全な姿を見出す事が出来るのであります。「今汝は健康である。今起て!」といい得る所以(ゆえん)であります。

だから吾々は「さとる」というのを「覚める」と書きます。眼を開く事であります。また正覚であるとか大覚であるとか等正覚とか色々名前を付けて居りますが、要するに心の<眼を覚ます>ことであります。不幸や病気があらわれているのは、唯眠って夢を見ているだけのことであります。

だから、吾々は眼を覚ませばいいのです。初めから吾々は如来であり、初めから救われている。如来は眠って居っても如来である。眼を閉じて居っても盲目ではないのであります。病気のように見えていても健康なのであります。吾々は神の子であり、本来、如来でありますから未だ嘗て迷ったことはないのでありますが、勝手に心の眼を瞑って病気や不幸災難の夢をみているのですから覚めればいいのであります。


吾々は物質であるという思いから覚めて、「自分は神の理念である」「如来である」「神性である」「神のいのちの波がここに現れているのであって、自分の本性は神のいのちその儘である」そういう風に徹底的に現在意識のみならず潜在意識にまでも考えればいいのであります。

そうしてその反対のものは要するに、「ない」として完全に否定してしまうことが必要であります。われわれの五官的感覚は現象界を処理するために、流動そのままの生命を固定化してみるために作られた作用であります。

現象界を処理する上から言いますと、「本来物質ない」と言っても斯ういう形があるとして処理して行かなくてはならぬ。形というものを摑(つか)んで処理して行く上から必要なことは、「彼」と「是」とを互いに分離していかなければならぬ。そこで五官は常に自他の分離の感じによって物を取扱うことになるのです。詰まり五官というものは、ものの本質を見るためのものではないのであります。

そこで吾々は時々(一日一回以上位)五官の世界を去って、實相においてモノを見る練習をしなければなりませぬ。「覚(さと)る」と云うのは物の本性、物の本質を見るのです。

だから見性(けんしょう)とも言います。人間のいのちの本質は何であるかとそれを充分見定めなければならぬ。之(これ)に反して五官というもには、モノの本質を見ないで、現れを見る。現われを見て「これはどういう恰好である。どういう寸法である。どういう色である」そういう風に見えるのが五官であります。

形がわかり、寸法がわかるというのは、有限に<もの>を見、自他別々の区画、即ち分かれた感じがなければわかりません。ところが宇宙の本質は自他分離しているのではないのであります。人間でも全体が一つなのであります。それを五官は細胞が集まっているとみる。脳髄と骨と皮と肉と内蔵とが集まっていると考えます。これが五官で見る考え方であります。

或る学校の先生が、「先生とは何ぞや」という問題を出したそうであります。すると一人の生徒が、「先生とは骨と皮とで出来ていて生徒を叱る一種の哺乳動物なり」と答えた生徒があったそうであります。唯物論の教育もここまで徹底したら大したものでありますが、これでは人間の實相たる完全なる神性を見ることが出来ないのであります。

即ちいのちの本質を見ないで、そして現象の形を見ているのであります。「人間」なる一つの尊き使命を有(も)ったものを見ないで、骨と皮とで出来ているという式に見るのは、分離分裂の感じであって是(これ)は迷いであります。

『甘露の法雨』には「人間は物質に非ず、肉体に非ず、脳髄細胞にあらず、神経細胞に非ず、筋肉細胞にあらず、血球にあらず、血清に非ず、・・・それらすべてを組合わせたるものにもあらず、人間は霊なり。」と書かれております。

『甘露の法雨』を読んで病気が治るというのも、此の實相の人間、神の子なる完全人間を「言葉の力」によって自覚せしめられるからであります。

 まことにも生きた人間は骨と皮と肉とで出来ているようなそんなものでないのであります。人間は「神のいのち」そのものであります。この「神のいのち」なる「霊的人間」を「物質人間」と見、病に冒されるものと見る「迷い」は、どうして起こったかというと、五官と云う者の用途を誤って、五官に依って見るべからざるところの「いのち」をそれによって見ようとした――そこに迷いが発生したのであります。

その迷いの念が忽然(こつねん)と発生した。「忽然」すなわち「ひょっこり」というのは、何時(いつ)という一定の時がないのであって、何時(いつ)でも吾々が五官に依って<もの>の本質を見ようとした時に“ひょっこり”其の迷いが始まるのであります。

それを創世記では「アダムとイヴとが蛇の智慧に騙(だま)された」という象徴物語になっているのであります。「蛇の知恵」とは地(即ち物質)の上を這うところの五官の知恵であります。物質ありとするところの五官知に騙(だま)されて、「人間神の子」の本質、いのちの本質を見ることを忘れてしまったところに「エデンの楽園」からの追放、すなわち「病気、不幸、災難」等があらわれて来るのであります。

だから再び「楽園」を奪還して病気・不幸・災難等のない世界に出るには、一度徹底的に五官世界の否定――すなわち、どんなに病気があらわれていても「病気なし」と否定し、實相の円満完全なる世界と人間とを観なければならないのであります。






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