我思う故に我あり(デカルト)
[6964]グッキー
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2017年08月20日 (日) 20時05分
デカルトは自分の存在にまで疑問を持った。 しかし今の人は自分の考えが正しいと信じ込み、議論はしません、反論は受け付けませんという人が多い。
批判こそ貴重なものなのに信じられぬ思いだ。自分の考えが正しいと信じ込めば、批判は不快なだけで耳に入らない。頭の中で考察しない。 結果、「自分の言いたいことしか耳に入らない」という人々が増えて来た。
自分の考えが正しいと信じ込めばもう考える必要が無い。頭脳は筋肉と同じで使わなければ退化する。人間が退化に向かっている。
「我思う」とは本当に我なのだろうか? 殴られれば痛いと思う。条件により生じたものだ。条件により生じたものは我では無い、これがインド哲学だったと思う。
人間は条件反射、与えられた環境から最善と思えるものを選択して生きている。 条件反射の産物だ。機械と変わらない。
条件により生じるもので無い、本当の我というものは普遍的愛しか無い。 普遍的愛は誰でも条件によらず持っている。
しかしそれも生命の存続の為に形成されて来たともいえる。 私には分からない。分からないが何かの存在は感じる。 この宇宙は普遍的愛に向かうように設計されている?
今の人は与えられた条件の中で条件反射しているだけのように見える。 我を忘れて居る。
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